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伊達家の危機を救った片倉小十郎の叡智
この変わった墓所をご覧頂きたい。ずらりとならんだ菩薩、このような墓は異例中の異例とも言える。読者の皆様は一体この墓には誰が眠っているのか?気になることだろう。

ここは宮城県南部の白石市の片倉家墓所である。そしてここに紹介する武将は片倉小十郎景綱である。
 
初代片倉小十郎影綱(15571615)
片倉家の先祖は信濃国伊那郡片倉村に住し大崎氏に従い奥州に下ったと伝えられる。現山形県長井市(八幡宮神社)の神主の子に生まれ、伊達政宗の守り役を使わる。数度に渡る抜擢を経て仙台藩伊達氏の重臣となる。小十郎は3代に渡る世襲名であるが、この初代景綱が特に著名である。豊臣秀吉の奥州仕置に際し伊達政宗の小田原参陣を推進近世大名としての伊達氏の再生を決定づけ太閤秀吉の福島三春の独立大名(10万石)の誘いを伊達氏への忠義を理由に固辞、一国一城の例外的措置である白石(しろいし)城にあって13千石を領した。伊達氏一家格で以降しばしば奉行職などの重職に任じた。

小十郎影綱の異父姉は喜多である。喜多は弟の小十郎景綱とともに幼少時の伊達政宗を見守ってきた女性である。ちなみに片倉家代々の黒釣鐘旗の家紋は喜多の考案と言われている。

白石市の市章が片倉家の家紋(黒釣鐘旗)を型どっているのは驚嘆すべき事実である。

 二代片倉小十郎重長(1584‐1659)
元の名は重綱だったが、三大将軍家光の嗣子家綱の諱字を避けて重長と改名、大阪夏の陣では伊達の先陣として強豪真田幸村と激突し激闘の末打ち破る。鬼小十郎の名を天下にとどろかせる。幸村からは子女を託され、幸村の二女阿梅は後に重長の後妻となる。

それでは倉小十郎重長と大阪夏の陣で激突した真田幸村とはどんな武将だったのだろう?
真田幸村(1567‐1615)
父は真田昌幸。名は信繁。天正13年(1585年)、父に従い豊臣秀吉に仕える。秀吉の小田原攻めで戦功をあげる。文禄元年(1592年)の朝鮮出兵では、備前名護屋まで出陣。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦では、父と共に信濃国上田城に籠城して、中山道を進軍する徳川秀忠軍を迎え撃ち、大いに戦功をあげた。戦後、東軍に属した兄信之の助命嘆願により紀伊国高野山九度山に蟄居。大坂冬の陣が起きると豊臣秀頼に応じ、大阪城南天王寺口外堀の外に“真田丸”と呼ばれる出城を築き奮戦する。翌年の夏の陣にも参陣し、伊達藩片倉小十郎重長と激突。一時は徳川方の本陣まで迫る討死する

大阪夏の陣で激突する片倉小十郎重綱(赤丸)と真田幸村(黄色丸)

この激突で討ち死にした幸村は敵将の重長に己の子女を預けている。これこそ武士の情けという言葉が相応しいのかも知れない。重長はその申し出を受け入れている。

三代片倉小十郎影長(1630‐1681)
松前安広を父とし重長の婦女喜佐を母とする。伊達騒動(寛文事件)では奉行として藩政を仕切り、伊達六十二万石を救う。
 
      著者メッセージ
 
志賀直哉原作「赤西蛎太」、山本周五郎原作「樅ノ木は残った」、このところ伊達騒動に関する記事が続いていたが、三代目の景綱とは一体どんな人物であったのだろうか?
片倉小十郎の初代景綱と二代目重長の活躍は大河ドラマ「独眼竜政宗」にも登場しあまりにも有名であるが、三代目は初代、二代目に負けないほどの優れた裁量(文武に優れた武将)を持ち合わせていたと察する。
 
片倉家の三代に渡る尽力なくして伊達藩の存続、安泰はなかったのではないだろうか?真田幸村は武将の道を貫いた人物と察する。
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