fc2ブログ
 歴史小説金色の九曜紋とともに  
 第九話「帰国と信仰」
1620年8月初旬、支倉は従者6名とともにソテロをフィリピンに残し朱印船でマニラを出港した。支倉が渡航するとほぼ同時にソテロがメキシコに送還されるはずだったが途中で船が嵐に逢い、再びマニラに引き返してきた。支倉は順調な渡航を続け8月末には長崎に着いた。そして長崎でキリシタン迫害を逃れようとした従者3名と別れた。支倉を含めた残りの3名は海路と陸路を経て翌月の9月18日に七年ぶりに奥州仙台の地を踏んだ。殿への土産ものとしてローマ法王の肖像画、その他多くの品を携えた彼が仙台城に馳せ参じたのは9月20日のことだった。

「長経(常長)、よくぞ戻ってきた。七年にも及ぶ奉公大義であった。」「それがしの力及ばず、殿へのお務めが果たせず平に申し訳ござりませぬ。」「そなたのせいではない。世の流れが事の成就を阻んだのじゃ。そなたも長旅で疲れておろう。しばらくはゆっくりと休むが良い。」殿はこう言って彼の労をねぎらった。

政宗は巨費を投じたスペインとの交易の交渉は失敗に終わったものの、この派遣事業が幕府に与えた影響を考えるとき、必ずしも全面的な失敗ではないと自分の心に言い聞かせていた。それは彼が今までの数々の戦や策略を通し、戦乱の世をしたたかに生き抜いてきた法則のようなものであった。小藩が大藩の下に伏し奉公を求められたとき、全面的に言いなりになると必ずと言っていいほど更なる締めつけを受け、潰される運命にあるということであった。これは彼に三度も寝返りながら、最終的に召抱えた大内定綱という家臣から吸収したものであった。

通常奉公しようとする者が三度も寝返れば打ち首となるところだが、この定綱には広い人脈とずる賢いまでの老獪な駆け引きがあったのであった。政宗はこの男のそんなところに魅力を感じ、殺さずに生かしておいた。定綱の駆け引きは単なる服従するだけの奉公とは違い、自身の培った人脈を利して何をしでかすかわからないという不気味さを漂わせるものであった。
 
古今を問わず主君からどうしても必要と思われる人物、或いは何らかの権力が背後に控えた人物はしたたかに生き残る。政宗には今の幕府と仙台藩の図式が自分と定綱との関係に酷似しているように思われるのであった。支倉は殿への挨拶を終えると今度は評定衆にも会い、彼自身の道中記録に基づいて渡航先であったことを細かく述べ伝えた。

以下伊達治家記録巻之二十八より

『支倉六右衛門は南蛮の都に至り、ローマ法王に謁見し数年逗留した。そして今年ルソン(マニラ)より便船に乗って帰国した。彼が持参した品物の中には法王の画や自分自身の画(十字架の前で祈りを捧げる構図のもの)等が含まれている。この南蛮国の事物並びに六右衛門の話は誠にもって奇怪なり。』

百聞は一見に如かずという言葉の通り支倉の述べることの多くはとても理解の得られるものではなかった。それと幕府が本腰を入れてキリシタン弾圧に乗り出している以上、仙台藩としても表面上は彼の行為を褒め称えるわけにはいかなかったのである。

支倉の帰国とほぼ同時に領内にはキリスト教禁止の高札が立てられた。幕府から包囲網を敷かれた政宗にとってはこうするしか生き残る方法がなかったのであった。支倉は殿や評定衆の目付役である茂庭綱元からは再三棄教するよう申し渡されたが、キリストの教えは洗礼を受けたその日から彼という人間の根底に居座り、生涯変わらぬものに化していた。この教えは彼のみならず家族や親族、彼と一緒にローマに渡った従僕にも及んでいた。これはむろん支倉に感化されてのものであった。棄教に応じないということは殉教もあり得る。彼らの多くはそれを百も承知で殉教を覚悟の上で信仰を貫いているのであった。

年が明け、やがて精根使い果たした彼は病床に伏すようになった。7年にも及ぶ苦行の旅は支倉をすっかり衰弱させ、頭髪には白髪が混じり実際の年齢よりも十歳は老け込ませて見えた。帰国してからの心労も重なり、妻の看病も虚しく日に日に衰弱が進みやせ衰えていった。桜の咲く頃の季節になると海の彼方からフェリペⅢ世の崩御を知らせる頼りがもたらされた。「あの国王が…」この頃、彼自身も己の身に終焉の時期が近いのを悟っていた。彼は時折肉体から魂が離脱するように不思議な夢を見た。それはまるで人ごとのようにも見えるのだが紛れもなく彼自身が現世で経験したことであった。

殺伐としたメキシコの荒野やスペインの大草原の中での行脚、マドリードの王宮での国王との謁見、ローマでの入市式、バチカンのシスト宮殿での法王との謁見、マニラでの滞在の日々、そこには栄光と苦難に満ちた行脚の様子があたかも今の彼の目の前で繰り広げられるように浮かんでは消え、浮かんでは消えていくのであった。そして夢の最後には決まったように太平洋の大海原に浮かぶサンファンバウティスタ号の雄姿が登場した。

紺碧の空を見上げるとメインマストには黒地に金色の九曜紋が入った伊達家の旗が風になびき、その背後には赤地に逆卍、違い矢の入った支倉家の旗が続いた。やがて二つの旗は夜の闇の中に消え、漆黒の太平洋に飲み込まれていくのであった。しかしこの暗黒の夜はやがて来ようとしている希望の朝への布石であり、証でもあることを彼は信じて疑わなかった。明けない夜はないのと同じで、現世の肉体は滅んでも魂は信じることによって救われる。彼はその希望がなんによってもたらされるのかを既に悟っていたのであった。

支倉がこの年の夏に没した後、ルイス・ソテロは日本への密航を企て翌年の1622年、長崎で捕まり入牢の身となった。そして彼は伊達政宗の助命嘆願かなわず1624年8月に長崎の大村で火刑に処せられた。それは策士とも野心家とも言われた彼が誤ちを認め、一人の宗教家として現世でできる償いを立派に成し遂げた瞬間であった。
 
    完

   エピローグ
身の回りの家庭用品から工業用品、乗り物に至るまで、昨今の我々の周囲には西洋文化がもたらしたものが溢れている。中世時代に南蛮国によってもたらされた西洋文化は日本に豊かな暮らしをもたらし、今日の日本を築く礎となった。この辺りのルーツが種子島にもたらされた鉄砲伝来であり、フランシスコ・ザビエルの渡来であった。西洋文化にひときわ敏感であった伊達政宗は1589年、同盟を結ぼうとしていた北条氏照から書状とともに南蛮傘と唐錦を授かったとされるが、この時彼は大きなカルチャーショックを感じたのではないだろうか。そしてビスカイノとの出会いによって西洋式の銃の威力をまざまざと見せ付けられることとなった。

そのビスカイノがもたらしたのは銃のみではなかった。セゴビア産の絹、フィレンツェ産の黒ラシャ、ビードロ・コップ、山羊なめし皮製の靴、毛織の靴下、毛布、石鹸、薬品など、どれも当時の日本にはないものばかりで極めて魅力あふれるものばかりであった。この時のビスカイノとの出会いは政宗の西洋文化への憧れに更に拍車をかけたのではないだろうか。そして西洋との貿易実現、富国強兵至高が彼の天下取りの思いに強く結びついたのではないだろうか。この事業は表面上は幕府と連携を取りながら行ったものに見えるが、その根底には幕府の独走はけして許さぬという政宗の気概としたたかさが見てとれるような気がする。

貿易交渉が失敗に終わり鎖国政策が一層強まり、キリシタンの禁教が叫ばれた江戸時代、この伊達政宗の抱いた壮大な海外派遣事業は幕府のおとがめを避ける意味で、口に出すのも御法度という状態が長年続いた。そして明治維新を迎え歴史の闇に葬り去れようとしていたわけであるが、約250年後の岩倉具視の欧州行きで再び日の目を浴びることとなった。更に明治天皇の『政宗は武将の道を納め学問にも通じ、海外にも目を向け交渉を命じた。文武に秀でた武将とは実に政宗のことである。』とのお言葉もあり、この事業は単なる仙台藩のものではなく、国際的な視野に立った大事業であるという評価がなされることとなった。

事実は小説よりも奇なりという言葉があるが、これほどこの言葉が当てはまる話もないのではないだろうか。伊達政宗、支倉常長、ルイス・ソテロ…、これらの人々が少しでも違った動きをしていればこの話は表沙汰になることなく、それこそ歴史の闇に消えていったことだろう。それだけに彼ら一人一人の生き方が400年の時空を経て感動とともに現代に蘇ってくる気がする。支倉常長の真摯な生き方、伊達政宗のしたたかさ、神に殉じたルイス・ソテロはそれぞれに現代に生きる我々にメッセージを発しているように思われる。

私は伊達政宗の慶長使節派遣400周年を迎え、前作「支倉常長と私」執筆を含め、支倉の三箇所の墓の取材など、数年間の準備期間を経て本著を書くに至ったが、その背後には私自身の郷土への深い愛着があった。その郷土愛と支倉常長の誠実な人となりが彼を英雄にし、尊敬して止まない人物に位置づけたのである。また非常に不思議なことであるが、数年前精神的な不調に陥った私が彼に成り切ることによって窮地を脱出できたことに不思議な因果を感じる。

彼は私に生きる道標を説いてくれた人物であり、人生の師でもある。私は改めて彼に敬意を表するとともにこの小説執筆をけして慶長遣欧使節団研究のピリオドとすることなく、単なる通過点としてこれからも多くの研究を重ねていく所存である。

最後に今回の私の執筆に対して暖かいご支援を頂いたブログ仲間の皆さん、並びに毎朝の出勤途中に書斎代わりに場を使わせて頂いた行きつけのカフェのスタッフの皆さんに心からお礼を申し上げる次第である。

平成25年12月14日(土)  原作者 横町挨拶
 

関連記事

トラックバック

トラックバック URL
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)