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第28回仙台市史講座「近世・近代の蒲生の記録」
郷土を愛するとはどんなことか?
於:仙台市宮城野区文化センターパトナシアター

本日は14時からこのような市民講座に参加してきた。蒲生とは仙台市の東部の七北田川河口に形成された集落である。

参加者の年齢層は60台から70台がほとんどと言った感じである。

講座の前に講師が紹介された。左は東北学院大学教授の菊池慶子氏、右が仙台市歴史民俗資料館学芸委員の畑井洋樹氏である。

これは震災前の貞山堀の新堀(南蒲生地区)と言われるところである。この堀をずっと進むと七北田川にぶつかり、その対岸が蒲生地区である。
2009年ミック撮影

これは震災後の蒲生であるが町も海岸林もほとんどが消失している。
かなり痛々しい写真である。2012年ミック撮影
 
菊池講師によるとこのクロマツ林は藩政時代から植えられ、手入れは村で行い、干ばつや飢饉の際は伐採されて売却されるなど、地域に密着したものだったとのことであった。我々はもう二度とこのような美しい海岸林は見ることができないが海岸林の大切さと存在の意義(防潮、防風、防砂)を後世に伝えて行かなければならないとの言葉が印象に残った。

休憩を挟んで次に第二部「明治前期の蒲生の風景」である。

これは藩政時代の蒲生である。米を運ぶための堀が敷かれているが17世紀中頃から後半にかけて掘られたものとのことであった。
ご覧のように堀の両側にはクロマツが植えられている。また海岸林も植えられていて美しい風情を醸し出している。

これは明治の前半の蒲生である。徐々に町が形成されつつあるのがわかる。

これは現代の蒲生周辺の航空写真である。赤線の延長が船入堀と言われる運河である。このような仙台港ができたのは1971年以降でその前は船入堀が海岸と平行に走っているだけであった。

アップにした3D立体画像はあまりにも衝撃的である。
基礎部分を残してほとんど建物が無くなっている。
そしてクロマツも数えるほどしか残っていない。
右の四角い池のようなものはかつて養魚場の飼育池があったところである。

江戸時代から明治時代にかけて堀がどのように巡らされていたかを地図でご覧頂きたい。舟入堀の他にいろいろな堀が掘られていたことがわかる。蒲生は米や他の物資の水運で栄え、形成された町であった。
※赤矢印:バイクを置いて撮影した位置(3枚後の写真参照)

米の大きな流通ルートを確認して頂きたい。石巻
塩釜
蒲生
鶴巻
苦竹とここまでは海と運河を使った水運(後に木道が敷かれる)、苦竹
榴岡は牛舎による陸路とのことであった。

これはネット上でも数少ない震災前の蒲生の町の一部が写っている写真である。(右上側)何卒、私のバイクが写っているのをご容赦願いたい。
2010年ミック撮影

これは蒲生干潟から仙台港を望んだ写真である。ご覧のように葦が生い茂って豊かな干潟を形成している。
2009年ミック撮影

畑井氏からは江戸時代の蒲生の町及び周辺の町の職業構成についても発表がなされた。今後文献などで更に調査を行い進展があれば発表したいとのことであった。郷土に対する愛着を改めて実感した今日の市民講座であった。
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