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  歴史小説金色の九曜紋とともに 
 
  第八話「最後の望みをかけて」
パウロⅤ世との謁見から三週間余りが過ぎた1615年11月20日、ローマ市街に市議会の招集を告げる鐘が鳴り響いた。この日の会議で満場一致のもとで支倉と従者7名(ソテロと通訳も含む)に「ローマ市民権証書」が贈られることが決まった。また支倉には貴族位も贈られることになった。ローマ市議会はその理由を支倉が徳や高貴さにおいて卓越した人物であることを上げている。



法王謁見から市民権が授与されるまでの間は支倉の従者も法王に書簡を提出し、日本国内のキリシタン布教活動や忠実な務めを報告し、これに対する幕府の弾圧や殉教についての法王のお力沿えを請願している。これはデウスへの固い誓いを果たすためであり、使節団を率いた実直で誠実な支倉への忠義の証でもあった。

この年の暮は今回の行脚で支倉が経験した中で最も輝きに満ちたものとなった。クリスマスまでの一ヶ月、支倉は枢機卿、王族、貴族、高位聖職者への挨拶を務めるかたわら、従者と共に市内見物を楽しんだり複数の絵画のモデルになるなどして充実した期間を過ごした。そしてクリスマス当日はサンピエトロ大聖堂で行われる恒例のミサへの出席を許された。このような中でようやく法王からの返書が届いた。まず奥州への宣教師派遣や司教の派遣は国王や顧問会議の判断を仰ぐ必要があるとされた。また通商に関してもマドリード在住の法王大使に文書で指示するという極めて事務的で中身の乏しいものであった。

これは使節を派遣した伊達政宗の対応(未だに洗礼を受けていないこと。奥州内に大聖堂が建設されてないこと)、幕府がオランダに続き、イギリスとも手を結び通商を進めていること、イエズス会やポルトガル政府の反対がその理由であった。

実は支倉がこうしている間に日本では徳川家康が病床に伏していた。そしてこの頃主君伊達政宗への噂が流れていた。それは政宗が娘婿である松平忠輝を担ぎ出して幕府への謀反を企てているというものであった。『政宗は何故自領でキリシタンを擁護しているのか?何故あのような大船をスペインに派遣したのか?』そして何よりも忠輝の付家老が起こした大久保長安事件(徳川体制下における権力争いを背景に金山、銀山の運営を任された人物であった長安は松平忠輝(家康の六男)の付家老で、その忠輝の岳父が伊達政宗であったという経緯から、長安と政宗は親しい関係にあった。長安の死後対立する本多親子は長安の横領をでっちあげ、長安が政宗の力を背景にして謀反を企んでいたと訴えた。)が大きく響いていた。

オランダやイギリスとの通商に携わる西国の大名には政宗との戦に備える者さえ出てきた。こうして政宗には幕府からの包囲網が敷かれていった。死に瀕した家康は政宗に息子秀忠の後見を頼むとともに、一方では秀忠に「伊達政宗は油断できぬ男じゃ。あの男をすべて信じてはならぬ。」というわ言を何度も繰り返すのであった。

「殿は幕府との微妙な関係を熟慮されてこのような対応に及んでいるのだろう。」支倉はこう思うと急に全身の力が抜けていくような思いがした。「支倉様、もう一度マドリードに行って国王の真意を伺いましょう。」ソテロは支倉の心を推し量るようにこう告げた。「うむ、わしは最後まで諦めぬつもりでござる。」後ろ髪を引かれる思いで使節がローマを後にしたのは年が代わった1617年1月7日のことだった。この時法王は支倉に餞別として銀の十字架や多額の金を贈った。法王のせめてもの誠意であった。実はこの時法王は国王に親書を送っていた。法王はその中で「ローマでは一行になし得る限りの栄光を与えたが、彼らの要望に応じるには国王には寛大なる対応を願いたい。」としている。


支倉はマドリードに向かう途中のジェノバ三日熱マラリアを患い体調を崩していた。そしてここに来てソテロの「奥州王政宗が皇帝家康の死を待たずに戦いを起こした。」という言葉は周囲に波紋を広げ、一層彼の信用を落とすものになっていた。ボルゲーゼ枢機卿もマドリード駐在の法王大使に「ソテロは自己、或いは親族の利益のために極めて熱心であり、奥州の司教或いは他の教会の名義司教になることを望んでいる。」という書簡を出し不信感を顕にした。このような背景もあり、マドリードに無理やり乗り込んだ支倉らには国王から退去命令が下され、セビリア到着後は速やかにスペイン艦隊で帰国せよと釘を打たれる始末であった。

帰路の使節はあまりにも惨めだった。イエズス会の広い情報網が日本のキリスト教会が迫害を受け、壊滅に瀕していることを把握していたためであった。それでも支倉はセビリアの修道院に引きこもり、病身に鞭打ってスペイン国王からの返書を待ち続けた。セビリアはソテロの出身地だけに今となってはそれだけが頼りであった。こうした中で日本では6月1日に家康が死んだ。その跡を継いだ秀忠は欧州船の寄港を長崎と平戸に限る二港制限令を発し、更にキリスト教への圧力を強めていた。そしてこの年(1616年)の9月には伊達政宗は幕府の許可のもとに、支倉を連れ戻すために太平洋を往復したサンファン浦和から出航させた。この時スペイン政府からは『貴地においてキリシタンが厚遇され、奥州王に神のご加護があることを。』という形だけの返書が出された。

もはや今の支倉を支えているのは武士として主君への忠誠を貫く意地とデウスがけして彼を見捨てないという信仰心だけであった。この年の4月にはソテロがセビリア市長に、支倉がフェリペ国王に最後の請願を行った。ここで一行に好意的なレルマ公は使節の訴えをもう一度インド顧問会議に打診するのであった。しかし顧問会議はこれを否決し使節団はついにスペインを離れることになった。ここで支倉は数々の困難をともに乗り越えてきた4名の従者と別れた。これによってメキシコに渡るのは支倉、ソテロを含めて7名となった。「これまでの奉公、大義であった。日本には二度と戻れぬだろうが達者に暮らせよ。」支倉がこう彼らをねぎらうと従者達は「支倉様こそお達者で。」と答え、目からは涙があふれるのであった。

こうして少数となった使節はスペイン艦隊の船で再び大西洋を渡り、1617年10月にメキシコに着いた。陸路の移動とフィリピンへの渡航の段取りで半年に及んだメキシコであったが、支倉はこの場に及んでもソテロとともに活動しメキシコ副王に貿易の課税に対する処置の異議申し立てを行い、これを撤廃することに及んだ。交渉不成立と体調不良という絶望の縁にありながらも彼は最後まで主君への忠誠を貫き、最善を尽くすのであった。

4年ぶりに戻ってきたメキシコでは大きな出来事があった。それはメキシコに留まり、支倉が再び訪れるのを待っているはずだった従僕が行方をくらましたことであった。彼は今まで殿のもとで戦での修羅場を幾度となく経験してきた。戦において人は極限まで追い込まれると命乞いをしたり寝返ったりするのを間近に見てきた。メキシコで洗礼を受けた彼らが日本に帰ったらどうなるのか?キリシタン弾圧による磔刑や斬首刑が待っているのかも知れない。彼らはその行く末を案じた故の逃亡であったに違いなかった。支倉はこの時自分が直接殿に遣える身分でなければ彼らのように逃亡に及んだのかも知れないという妙な気持ちが湧いてくるのを感じるのであった。

この年の3月には政宗が支倉を迎えるために差し向けたサンファンバウティスタ号がアカプルコに入港していたが、途中嵐に遭遇し船内は水浸しになり、マストも折れ、甲板には草が生えた状態で100名近い死者を出しながら満身創痍で同港にたどり着いたのであった。この死者の中には幕府の船奉行向井忠勝の派遣した船頭も含まれていた。またこの船の船長役は仙台藩士である横沢将監吉久が務めていた。

この時支倉にはメキシコ副王からサンファンバウティスタ号をフィリピンでのオランダとの海戦に備え買取たいとの要望が伝えられていた。また直接日本に戻ればスペイン人の船長や航海士が処刑される可能性があるのを恐れてフィリピン経由での帰路(日本人による運航)を告げられていた。支倉は船の売却について最初は断っていたがフィリピン経由で日本に戻るにはスペイン船風のサンファンバウティスタ号を用いるよりは定期の便船に乗るのが得策と考えこの売却に応じた。船はメキシコで修理や改造が施され、フィリピンに渡ってからスペイン側に引き渡す約束がなされたのである。こうして船の修理を終えた1618年4月、支倉ら7名の使節を乗せたサンファンバウティスタ号はフィリピンへと向かった。
 
貿易風(マニラガレオン)の恩恵を受けた彼らは四ヶ月弱の順調な航海を続け、8月10日に灼熱地獄のような猛暑に見舞われるフィリピンに到着した。マニラ港には多くのスペイン船が停泊していた。政庁や協会など主要な建物はすべてスペイン風であり、アジアというよりは本国スペインの影響を強く受けた西洋文化があらゆるところに見られた。



ここで支倉を待っていたのは長男勘三郎から寄せられた手紙であった。
 
支倉六右衛門長経殿
 
『はるかな異郷での父上の身の上、ずっと案じておりました。しかし拙者はどんなことがあっても父上がこのお勤めを無事に果たし、再び帰ってこられるのを信じて参りました。家族も元気にしておりますのでどうかご安心の上活躍され無事にこの大義を果たされますことを固く念じております。』
                             勘三郎
 
これを読んだ支倉は急に目頭が熱くなるのを感じた。今まで自分は殿の命に報いるべく交渉の成就だけを念じて行脚してきた。日本に残された家族のことを思い出すと辛くなるので家族は死んだものと言い聞かせ、考えないようにしてきたのであったがこの息子からの手紙を見たとたんにその気持ちが大きく揺らいだのであった。支倉は多忙の合間に二日後にはこの返事を書いた。



支倉勘三郎殿
 
『お前からの手紙を何度も何度も読み返し、私は今喜びを込めてこの手紙を書いている。今年の4月にメキシコを出発し何事もなく三日前にルソンに着くことができた。今年中には帰国したいところだが殿様への買い物や新しい船を作ることもあり、年内には戻れない。それでも来年の8月には必ずや必ずや帰るのでお前の心に留めてもらいたい。私は何事もなく過ごしているが足軽3人を含め病気を患っている者もある。清八、一助、大助の3人はメキシコで逃げ行方不明になった。また殿が迎えに遣わした人(幕府の船奉行向井忠勝が遣わした船頭と思われる)が船の中で死んだため、持参した品物はすべて失われこちらに届かなかった。お婆様にはよくいたわって奉公をし、くれぐれも親身になって接してもらいたい。忠右衛門慰(支倉の従者と思われる)をつけているので度々見舞うように心がけて欲しい。その他もっと細かに書きたいのだが急いでいるので本書をもってお前への返書とする。必要とあればまたその折に手紙をしたためるつもりでいる。』
 
8月12日 ルソンにて 支倉六衛門 長経(花押)

この返書は即日、ディエゴ・サン・フランシスコ親父に託され、ソテロの書状とともに日本へ渡った。この手紙で支倉は自身の体調の不良について一切触れてないがこれは殿や家族に余計な心配をかけない配慮であった。その後彼は自分の意志に反し2年近くもマニラに留まることになった。この2年という滞在期間は今回の行脚で最も長いものとなった。これにはソテロの思惑が響いていた。



ソテロはスペイン国王が派遣したカタリーナ親父が秀忠との謁見を拒否され贈り物さえ受け取らずに冷遇された上に送り返された時期に自分が単独で日本に渡るのは得策でないと考えた。できれば支倉とともに日本に渡り、政宗の庇護の下に入ろうと思っていたのであった。スペイン国王とローマ法王の返書、セビリア市からの返書、贈り物はすべてソテロが所持していたために支倉もソテロの思惑を考慮せざるを得なかったのである。しかしそのソテロにも反対派の包囲網が迫っていた。1920年8月には新布教区設立の許可が却下されメキシコへの出頭命令がくだされた。

続く
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