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  歴史小説金色の九曜紋とともに  
 
 第七話「ローマでの栄光」
きょうは当時ローマ法王であったパウロⅤ世に敬意を表し、バチカン市国国歌の吹奏をリンクする。まるで宗教音楽を彷彿させるような深く荘厳な趣のメロディーを味わって頂きたい。また2分22秒からは歴代の法王の画像が登場する。

 Vatican National Anthem 
 
「すべての道はローマに通ずる」とは17世紀のフランスの詩人ラ・フォンティーヌの言葉であるが17世紀初めに一行がローマを訪ねたとき、ローマは既に世界の中心であった。今の支倉が向かって会おうとしている人物こそ、その中心の都市の権勢の頂点に立つローマ法王、パウロⅤ世であった。『スペインがカトリックの国である以上はフェリペ国王とて法王の言うことはないがしろにできまい。』このへんの知識はもちろんソテロから聞かされたことであった。支倉はローマ法王との交渉に今回の使命のすべてを賭けることになった。

ローマ行きが決まった時、律儀な支倉は枢密会議、インド顧問会議やその他の貴族や高官への挨拶回りに追われた。このマドリードからバチカンに至る道は支倉にとっては本当のキリシタンになるための巡礼の旅でもあった。言語が異なるローマに行くには新たな通訳が必要となるがその通訳兼秘書役としてローマ出身のシピオーネ・アマーティが一行に加わることとなった。

1615年8月22日にマドリードを出発した一行は翌日の23日に31年前に天正少年遣欧使節が訪れたアルカラ大学を表敬訪問した。9月1日カタール領レリダからは山賊が横行するとの理由でバルセロナまでの道のりを一行は警護隊に守られながら馬車、荷車、ラバに分乗して進んだ。このルートは各地の教会や修道院に立ち寄りながらの行脚であったが、フェリペ国王から授かった紹介状や旅行者証明書の効力もあり概ね順調に進むことができた。支倉は何かにつけてドン・フィリッポ・フランシスコ・ハセクラの洗礼名による厚遇を強く意識せざるを得ないのであった。

一行がモンセラット山を下りマルトレル経由でバロセロナに着いたのは9月5日の夕方のことだった。支倉より一足先にバロセロナに着いていた秘書役のアマティは馬車2台を伴い、市の外れで一行を出迎え、海岸沿いに建つ立派な屋敷に導いた。ここで要人への挨拶を済ませた支倉とソテロは夕方海岸沿いの散歩を楽しんだ。このような余裕は今までの行脚ではなかったことだがマドリードでの国王謁見の実現が支倉に自信をもたらし一種の開き直りの心境に達していた。支倉にとって交渉がうまく行くか行かないかは神の決める領域であり、自らの力の及ばぬところであるように思えた。全身全霊を傾けて交渉の成就に取り組み、結果がついてこないならしょうがない。これは武士道で言う潔さにも通じる心であった。この気持ちが悩める彼の心を幾分和らげてくれているのであった。

バロセロナの港は活気に満ちていた。港には数百にも渡る大小様々な船が停泊しており、中には千トンを超すガレオン船も係留されていた。夕方の港町は海軍軍人や船乗り、荷受の商人で溢れかえっており、そのおこぼれを授かろうとする酒場の女や小僧の姿も見られた。支倉はここでも港町特有の悲哀を感じたがこれまでのこじんまりした港とは規模がまったく違っていた。世界各地に領土を広げた海洋大国スペインの培った歴史はバルセロナのあちこちに残っていた。支倉はこの大きな港町にそんな思いを抱きながら、ソテロとともに宿への帰路に着くのであった。



翌々日の9月7日アマティはイタリアに渡航する船の手配に成功したが、身支度を整えて地中海に繰り出した時には9月25日になっていた。ここで地中海に出た一行を迎えたのは数日間にも渡る逆風だった。逆風が過ぎ去ると今度は気候が急変し嵐に見舞われた。一行はこの嵐をやり過ごすのに南フランスのサン・トロペに寄港するのを余儀なくされた。この嵐との遭遇は寄寓にも彼らをフランスを訪れた最初の日本人とした。二日の滞在でしかなかったサン・トロペであるが奇抜とも言える一行の服装や箸を使った食事のスタイル、鼻を紙でかみ路上に捨てる習慣、キリストに対しての支倉の敬虔な祈りは多くのフランス人の心を捉え、後々まで強い印象を残すものとなった。

様々な場所で話題となった彼らの服装であるが、サン・トロペでの彼らの格好は陣羽織やマント姿で糸巻き棒のような大小日本の刀を差しており、中国風とも和洋折衷とも受け取れるような服装で彼らにとって普段着であった。この後のジェノバでは足元まで届く表着の上に黒絹で波模様の入った袖付き陣羽織を羽織り、黄色い絹製の足袋、黒のフェルト帽子というもので極めて人目を引くものであった。これには「そちたちは藩の産物を身に付け、商いを広めるように努めるのじゃ」という殿の仰せに沿ったものであった。また黒を基調とした衣装の配色は殿の朝鮮出兵依頼に根付きつつある伊達藩伝統ともいうべきもので、武士としての精悍さと誇りを示すものであった。

10月18日に一行はローマ法王領であるチヴィア・ヴェッキアに到着した。この地でも秘書役のアマティは精力的に動き回り、法王との謁見に向けて大きく貢献した。ローマ法王と使節の謁見の実現にはアマティの他に二人の要人が関与していた。一人は在ローマ、スペイン大使のドン・フランシスコ・デ・カストロであり、もう一人は法王の甥でもありその補佐役を務めていたボルゲーゼ枢機卿であった。アマティはこれらの人物に使節の真意を伝え、間を取り持つ役目を果たしていた。またこの謁見実現にはフェリペⅢ世による法王と使節との接見を促す書状が大きく関与していた。このような経緯を経て謁見は実現するものとなっていったのである。

数日後、謁見の内定を得たボルゲーゼ卿自らが法王からの信任状を携えて一行を表敬し、その旨を伝えにきた。「法王パウロⅤ世との謁見を正式に認めます。」この言葉を聞いた支倉は言語に尽くし難い感激がこみ上げてきた。支倉は「これまで五千三百レグア(約三万キロ)に及んだ長旅の多くの厄難、苦悩は尊大なる法王と枢機卿のご慈悲によりすべて帳消しになりました。」という言葉をもってこの吉報に答えた。この気持ちはけしてお世辞やよそ行きの言葉でなく、彼の本心から湧き出てきたものであった。法王との謁見がかない、一行がローマに到着したのは10月25日のことだった。

ここで一行は幸運にもローマ到着初日に法王との内謁(非公式な謁見)が実現する運びとなった。ボルゲーゼ卿の報告を受けた法王が入市式、正式謁見を前に彼らをひと目見ておきたいというのがその理由であった。午餐会の歓迎を受けた一行がローマ市のサン・ピエトロ宮裏手の水道に差し掛かったところボルゲーゼ卿の使者が来て「法王のもとに直ちに参上すべし。」との知らせが届いた。ここでクィリナーレ宮殿を訪れた一行が法王の部屋に近づくと侍従から「二人の大使(支倉とソテロ)のみが入室するように」と告げられたのであった。ここで支倉とソテロは法王にひれ伏し敬愛の念を表すると法王からは長旅へのねぎらいの言葉がかけられた。支倉はここで万感こみ上げるものを抑えきれずに男泣きにむせび泣くのであった。

あくまで儀礼的な内謁が無事に済み、ローマ入市式が執り行われたのは10月29日午後のことだった。仙台領月浦を出てから実に二年と一日が過ぎていた。内謁の時に感じた支倉の気分の高揚はこの入市式に及んで更に高まり、最高潮に達しようとしていた。

入市式が始まったのは午後三時だった。バチカン門外に隊列を整えた後、ラッパ手を先頭にボルゲーゼ家の人々、各国大使とその侍従、騎士を従えた貴族が続いた。その後に鼓手14名、騎乗のラッパ手5名、武装した日本の使節随員7名、刀を携え白馬に跨った名誉ある武士4名が続き、この後に両側を衛兵に護衛され白馬に跨った支倉、法王の甥、武装した支倉の従僕4名、馬車に乗ったソテロらの聖職者が続き総勢百名近い大行列となった。この時の支倉の服装は謁見用にあしらえた絹製の金糸、銀糸で織られ鳥獣草花が散りばめられた白地の和服に黒のフェルト帽子というものだった。



行列はサンピエトロ寺院を背にしてゆっくりと東へ向かった。この時出発の合図として二十数発の祝砲が空高く放たれた。この様子を窓から伺っていたパウロⅤ世は「見事である」を連発した。次に古代ローマ皇帝が埋葬されているサン・タンジェロ城のところで右に曲がりテベレ川に架かるサン・タンジェロ橋を渡った。橋の両側は羽根を生やした十体のエンジェル像が立っていた。沿道は紳士や着飾った淑女で埋め尽くされていた。また沿道の建物の窓という窓にはこの晴れ姿をひと目見ようとする人々が行列を見守った。行列がサン・タンジェロ城を通過しようとするとき、楽隊による音楽が演奏され城からは百発の祝砲が放たれたが、この轟音も大歓声の前にかき消されるほどの熱狂ぶりであった。


いよいよ行列はローマ市内に入った。支倉らは狭い路地を進み古代ローマ遺跡であるフォーロ、ロアーノを見ながら緩やかな左カーブに差し掛かった。群衆から拍手と歓声を浴びた支倉は馬上で帽子をとり、軽く会釈してこれに応じた。使節はこうして世界の中心であるローマの伝統と威容を肌で感じ、精神的な高揚をもって大いなる達成感に浸るのであった。

こうして盛大な入市式は無事に終わり、謁見の日は11月3日と決まった。支倉はこの五日間を夢見心地で過ごしていた。『殿は今頃どうされているのだろう。入市式の晴れ姿を殿に見せたかった。』こう思う気持ちは彼のみでなくもはや従者の全員が思うところであった。「支倉様のためなら例え地の果て、海の果てまでもお遣えする。」彼らは支倉の誠実な人柄に信頼を寄せ、なんとかこの交渉を成就させたいと考え、彼に従うのであった。そして彼は興奮冷めやらぬ間に謁見の日を迎えた。

この日支倉はソテロとともにシスト宮殿三階の枢機卿会議室に通された。しかし法王と謁見したこの部屋には重大な意味が隠されていた。実は法王の執事でもっとも重要とされることはこの会議室ではなくサーラ・レイジアと呼ばれる王の間で行われるのが通例であった。この王の間に通されなかった理由は二つあった。一つは使節が日本の正式な使節でなく奥州の一王侯のものであること、もう一つは彼らを派遣した伊達政宗自身がいまだに洗礼を受けてないことであった。



侍従の案内で枢機卿26名と高位聖職者多数が見守る中、入室した二人はここで三度ひざまづきひれ伏し、法王へ礼を尽くした。ここで支倉は「私は日本の奥州国王の名代として聖下(法王)に遣わされました。聖下に恭順の意を表し忠誠の誓いを表明できたのは神の恵みでありこれを深く感謝します。」と述べ謝意を伝えた。これに対してパウロⅤ世は「奥州の王国においてキリスト教改宗が進み、聖なる福音が広がっていることをうれしく思い、使節の正当な要望に対しては格段の配慮を行う。」と返答した。次に法王秘書官によってローマ法王宛て伊達政宗親書(ラテン語訳)が読み上げられた。


   
※ローマ法王宛て伊達政宗親書内容
世界に名高く尊い法王、パウロⅤ世様の御足を日本の奥州王である伊達政宗が口づけ致します。ソテロ親父を介し、私はデウスの教えを尊く誠の道であると受け止めましたが諸事情によりまだ帰依しておりません。しかし我が奥州領ではすべての民がキリシタンになるように努めますので、どうかフランシスコ会派の宣教師を派遣して頂きたいと思います。その暁には私は教会を建てて宣教師を受け入れ厚遇したいと思います。

また司教に当たる人物も派遣して頂きたく存じます。私は聖下(ローマ法王)のどんなご要望も受け入れる所存であります。ご負担についてのお気遣いは要りません。このあたりはソテロ親父に申し伝えております。
 
尚、ソテロ親父には私の家臣である支倉六右衛門という者をつけました。私の国とメキシコは大海を経た隣国でもあります。従って両国の往来についてはフェリペⅢ世国王陛下に既にお願いしてあります。何卒この件に関しての法王様のご助力を賜りたい所存にございます。以上のことを尊いデウス様の御前にてご容認くださるようお願い申し上げます。
 
慶長18年9月4日(西暦1613年10月19日) 陸奥守(奥州王)伊達政宗

この朗読に続きフランシスコ会の正監視官フライ・グレゴリオ・ペトロッカにより伊達政宗の実力、支倉の人となり、ルイス・ソテロの日本での奮闘ぶりが伝えられた。  
続く
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