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 歴史小説「金色の九曜紋とともに」
 
そろそろこの歴史小説も佳境に入って来た。きょうは今回のメインであるイスパニア王国(現スペイン)に敬意を表し、同国国歌をYou Tubeにてリンクする。最初にお断りしておくが、この国歌「国王行進曲」が作られた時代は支倉がスペインを訪ねた時よりも、ずっと後になってのことである。但しこの曲の極めてゆったりとしたテンポ、かつ荘厳なメロディーが往時の日の沈まぬ大国の威厳を感じさせるに十分であると認識し、敢てリンクに踏み切った次第である。
 Himno Nacional de España 

第六話「名誉の洗礼
既にマドリード入りして二週間が過ぎた1615年1月初め、支倉らはフェリペⅢ世の住む王宮と800メートルしか離れていないサン・フランシスコ大寺院で新年を迎えた。「今頃殿の城では新年の挨拶をしている頃だろう。それに引き換え国王は何をしているのだろう?」そう考えると彼には尖塔を備えたゴシック式の大宮殿が一層高くそびえ立つように見えるのだった。マドリード入りしたとき国王は支倉らに遣いを送り、しばらくゆっくりして長旅の疲れをとるように言ってきたがその後はさっぱりだった。

ちょうどその頃、日本ではキリシタン弾圧が更にひどくなっていた。家康の後を継いだ秀忠がキリスト信者を信者を次々に処刑しているとの情報がもたらされたためであった。日毎に苛立ちを募らせる支倉に朗報がもたらされたのは1月25日のことであった。こみ上げる感情を抑えきれず満面の笑みをたたえたソテロがこう述べた。「支倉様、ついに国王との謁見がかないました。謁見は1月30日です。」ついに夢にまで見たその日がやってきた。支倉は武士らしく表情には出さずともその吉報に胸の鼓動が高鳴るのを感じた。

1月30日の朝、支倉の宿泊先であるサン・フランシスコ大寺院にフェリペ国王差し回しの馬車三台が到着した。これは国王への進物を運ぶためでもあった。支倉は逸る心を抑えながらソテロとともに馬車に乗り込んだ。ここから宮殿まではわずか数分もかからないのだが、彼にはこの馬車に揺られる石畳の道が非常に長く感じられた。
 
最盛期は過ぎたものの栄華を極めた海洋王国と言われるイスパニア宮殿は驚嘆に値するものであった。140m四方にも及ぶ巨大な建物は天に向かってそびえ立ち、中に入るとおびただしい数の衛兵が馬車の行く手を見守り並んでいた。二千を優に越す部屋数、高い天井、数々の絵画や彫刻の装飾に至るまで王宮の内部は外観同様に圧倒的な威厳に満ちたものだった。

支倉は謁見の前に別室に入り主君政宗から授かった絹の衣装に着替えた。この着物は今回の交渉の一番の山場に備え、殿が特別にあしらえたものであった。白絹を基調とした羽織袴の柄には茶と灰の遊び鹿が、胸元には茶と褐色の薄が施してあり、太刀には伊達家の家紋である九曜紋を透かし彫りした金色のつばがつけられていた。まさにこの装束は国王や法王との謁見に相応しい高貴な召し物であった。

武士は何事においても平常心が求められるが、この日の支倉は流石に大詰めの交渉を控え精神が高ぶっていた。しかし彼は別室でこの高貴な衣装を纏うと不思議と心が静まるのを感じた。
 
『わしは今まで何度も修羅場を乗り越えてきたが、殿からこのような大きな使命を授かり、先方から華々しく出迎えられたことはなかった。まして相手はイスパニア帝国の国王、この着物には殿の熱い思いが託されておる。きっとこの場所に相応しいわしの晴れ姿を殿が願い、あしらえられたに相違ない。それに応えるためにはどんなことがあっても殿の真意を国王陛下に伝えなければならない。』彼はそのような強い使命感を抱き、この大舞台に臨もうとしているのであった。

この後、彼は侍従の案内によりソテロとともに重臣らが居並ぶ大広間に通された。このとき支倉には前方の天蓋(荘厳な装飾が施された傘状の吊るし飾り)の下で腰支えにもたれかかった細身の国王を見る余裕などまったくと言っていいほどなかった。彼は緊張した面持ちで王の前に出ると三度膝まづき口づけをしようとしたが、フェリペⅢ世は手を引っ込めた。
 
彼が王の姿を見たのは「起立して口上を述べよ。」と言われたときであった。36歳の国王は長身で青白い顔色をして彫りの深い顔立ちに赤い髭を生やしていた。その全身からは溢れるような気品は漂っているものの、一方で大国の王にしてはその表情に覇気がないように感じられた。これは彼の主君の伊達政宗と対照的であった。

フェリペⅢ世の支倉に対する姿勢は日本から遠路を経てわざわざここに来ている彼に敬意を払ったものであるとともに、対等の立場での話を求める気遣いでもあった。支倉とソテロは書状を読み上げるために王の前に出て横に並んだ。これらの書状は和文とスペイン語の二つのものが用意されていた。支倉は「フェリペⅢ世宛伊達政宗親書」(和文は申し合わせ条々:日本とスペインの和平協定書)を和文で読み上げた。これが終わると今度はソテロがスペイン語版の書状を読み上げた。

フェリペⅢ世宛伊達政宗親書(和文名:申し合わせ条々)
1、仙台領への布教のためフランシスコ会の宣教師の派遣を願いたい。
2、宣教師の渡航に便ずる船の建造並びにメキシコとの通商を希望する。
3、水先案内人、船員、宿泊所の提供を希望する。
4、ルソン(フィリピン)からメキシコに向かう船が領内に漂着した時は積荷を没収せずにこれを保証する。また船の修理に便宜を図る。
5、仙台領内で造船を行う時は木材、船大工、人足、その他の必需品を供給する。
6、貴国から船が来た場合は課税をしない。また領内で商いを行うのは自由である。
7、仙台領でのスペイン人には居留地を与え厚遇する。万が一、訴訟や騒動が起きた場合はスペイン人の代表が貴国の法に基づいてこれを処理する。
8、イギリス人、オランダ人、及び貴国と敵対するその他の国の者の入国は受け入れない。

ここで支倉はフェリペ国王に驚くべきことを述べた。「陛下の御威光は既に広く日本に行き渡っております。私が陛下の国に遣わされたのは第一にキリスト教の大きな支えである国王陛下に宣教師の派遣を請願するためであります。第二に我が主君である奥州の王はその領国と王位を陛下に捧げるものであり、奥州の王は如何なる時にも陛下へのご奉公を惜しむものではありません。またわたくし自身は陛下立会の下での洗礼を希望しております。」

これを読み上げたとき、王の側近からはざわめきともつかない驚きの声が聞かれた。仙台藩がスペインの支配下に入ることを希望するこの言葉には政宗の幕府に対する謀反の気持ちが込められていたからであった。この読み上げが終わると引き続きソテロから家康と秀忠の日本との通商を希望する旨の書状が読み上げられ、最後に進物の数々が渡された。
 
これに対するフェリペⅢ世の返答はあくまで儀礼的なもので、支倉の洗礼への同席を承諾したのみで他は検討するという範囲に留まった。見方を変えれば国王には仙台領のことなどあまり頭にないとも受け取れるような返答ぶりであった。

この謁見が終わると支倉は自身の洗礼に向けて動き出した。彼は2月4日、国王の代わりに実質的な執権を振るっていた寵臣、レルマ公フランシスコ・ゴメス・デ・サンドバル・イ・ロハスを訪ねた。そして彼には洗礼の時の代父(精神的な父)を引き受けることへの快諾をもらった。レルマ公がこれを快諾した理由は「大使の物腰から発せられる精神の輝きと思慮の深さを看取したから」としている。この時支倉はレルマ公からローマ行きに関する資金の援助の希望を国王に取りつぐ旨の同意も得たのであった。

またその翌日の2月5日にはラス・デスカルサス・レアレス修道院(王立フランシスコ会女子修道院付属教会)にフェリペⅢ世の従妹であるマルガレータ王女を訪ね、王室と縁の深いこの修道院で洗礼を受けられるように王への執り成しを頼んだ。これらは交渉に行き詰まった支倉が少しでもいい条件で洗礼を受けて望みを繋げたいとする気持ちの表れであった。
 
そしてその努力がついに実った。洗礼の日は権威あるこの修道院で2月17日に行われることが正式に決まったのであった。支倉は洗礼の覚悟を既に決めていたとは言え、時として葛藤も湧き上がるような複雑な心境を抱きながら洗礼までの日々を送った。その葛藤とはこれまで殿に対しての忠誠が生活の全てを支配してきた彼にとってデウスの存在の意義とは一体何なのかを考えさせるものであった。この時デウスに一度忠誠を誓ったからには死ぬまでもという思いが律儀な彼に芽生えようとしていたのであった。
 
そして彼はその運命の日を迎えた。ラス・デスカルサス・レアレス修道院で国王夫妻、側近中の側近、高位の聖職者が立ち会うなかで厳かに式は執り行われた。「あなたはキリストの復活を信じますか?」「洗礼を望みますか?」と司祭が尋ねると彼はためらうことなく「はい」と答えた。代父、代母が彼の肩に手を置いた。ついで司祭が彼の額に聖水を掛け、ろうそくを渡しこう話しかけた。「ドン・フィリッポ・フランシスコ、これがあなたの洗礼名です。」聖書の絵が描かれた30メートルを優に越す聖堂の天井に祝いの聖歌(デ・デウム・ラウダムス)とオルガンが一斉に響き渡った。『御身天主を我ら讃え、御身主を我ら賛美し奉る』またこれを祝福する無数の灯火が祭壇をオレンジ色に照らした。



この洗礼名のドン・フィリッポ・フランシスコのフィリッポはフェリペ国王から、フランシスコはレルマ公フランシスコ・ゴメス・デ・サンドバル・イ・ロハスの一字であった。彼は偉大なる帝国イスパニアの王とこれに遣える最高実力者の名前を同時に与えられたのであった。このようにして彼の洗礼はこれ以上は望めないほどの最高の名誉のうちに執り行われた。そしてその精神の高揚は支倉のみでなく、ソテロも或いは随行した従者たちも余韻として永く深く味わうものとなったのであった。

尚、支倉は洗礼前にトレド大司教から洗礼式や教徒の務めに必要な画像、ロザリオ、十字架、聖母の絵などが贈られている。そしてこの中には金の縁で囲まれ、ロザリオを手に十字架に祈りを捧げる彼自身の肖像画(宮廷画家クロード・デュリエ作)も含まれていた。この時代に東洋の日本からはるばると二つの大海を越え、欧州で洗礼を受けた支倉がキリストに祈りを捧げる姿勢はそれだけで多くの人々に感動を与えるものであり、敬意を払うべきものであった。もはや彼は忠義深い仙台藩士のみならず、敬虔な一人のキリシタンでもあった。



フェリペ国王は謁見の場で支倉のローマ行きを認めながらも支倉がローマに旅立ったのは1615年8月22日で7ヶ月近くも要したことになる。この背景には4,000ドゥカド(現在の金で約2億円)と言われる旅費の捻出とインド顧問会議の反対(使節を直ちに日本に送り返すべきであるとの主張)があった。インド顧問会議はもはやソテロの主張を全く受け入れない状態となっており、伊達政宗が未だに洗礼を受けていないことも問題視していた。そして何よりも将軍徳川秀忠の相次ぐキリシタンの処刑、教会の破壊がその大きな理由であった。

このような逆風が吹く中での支倉のローマ行きは最終的には条件付き(前もって使節がローマ法王にスペインと仙台藩との通商を迫らないように根回ししていた)での王の最終決断があっての履行であった。フェリペ国王はインド顧問会議の主張を退け、自分の名前を分けたドン・フィリッポ・フランシスコ・ハセクラへの厚情を通したのであった。これは眠れる獅子フェリペⅢ世が一瞬だけ目を覚まし、王としての威厳を見せた瞬間でもあった。



そして王の厚情を得た侍は最後の賭けに出た。ドン・フィリッポ・フランシスコ・ハセクラは仙台藩士として、そしてキリシタンとしてその聖地であるローマへと地中海経由で旅立っていくのであった。
続く
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