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 歴史小説「金色の九曜紋とともに」
 
   第五話「セビリアでの使節」
一行がスペインのサンルカール・デ・バラメダに到着したのは1614年10月5日のことだった。大西洋に面したこの地は地中海の入り口とも近く、秋とは言えこの日はまだ汗ばむほどの陽気だった。支倉らの使節三十名を乗せたサン・ヨセフ号はグァダルキビル川の河口に沿った大きな港に入った。ここで一行はソテロの口利きでアルマダ海戦(1588)のスペインの無敵艦隊を率いた第7代メドナ・シドニア公の歓迎を受けた。
 
彼は有名な海賊フランシス・ドレークと一戦を交えた人物でもあった。シドニア公はこの戦いで大敗北を喫しただけにスペインに帰って来てさぞかし肩身の狭い思いをしたことだろう。だが彼は一行には屈強なスペイン軍人として振る舞い、そのような敗軍の将と思えるような仕草は少しも見せなかった。そればかりか、はるばる遠くから来た支倉らを心から歓迎してくれた。これはソテロが大西洋上でセビリアに書いた手紙が一足先に着き、シドニア公の耳に入ったのが大きかった。

ソテロは隣町のセビリア出身で幼少時は秀才と言われ、昨今は宣教師となって布教のため大洋をまたにかけ各地を転々としているだけに、セビリアでは期待を集めうる人物となっているのであった。「私は日本の奥州から遣わされた支倉六衛門長経(常長)です。奥州の王の御意に沿うべく領国への宣教師の派遣と布教を望んでここに参りました。」と支倉が挨拶を述べると「はるばる日本からお越し頂いた大使(支倉)に会えて光栄です。神のお導きにより今回の訪問が奥州の王と大使の意志に沿ったものとなるのを祈念しています。」シドニア公は通訳のソテロを介しこう述べて丁寧に一行の労をねぎらった。
 
彼はこの後でかつてはコロンブスやマゼランも立ち寄ったという自身の館を解放し一行を宿泊させた。夕食のもてなしを受けた支倉はバルコニーに出てみた。対岸の寺院の白い壁がオレンジ色のたいまつにゆらゆらと揺れていた。その寺院とは直角に交わる路地に沿って何件かの酒場があり、その灯火が彼を郷愁に誘った。



アカプルコ、ベラクルス、ハバナ、支倉は今回の行脚でいくつかの異郷の地の港町を見てきたが港町には船乗りの哀愁が漂っていた。彼は二つの大海を渡り、この大国にたどり着いたことを殿に伝えたかった。しかしこのルートから手紙を取り継ぐ手段は何もなく諦めるしかなかった。『自分はただがむしゃらに進むだけだ。その暁には必ずしや成就が待っていよう。ソテロの力添えも大きいが生きるも死ぬも己の采配次第、己の道は己が切り開くしかない。殿が奥州王になったのもそんな志が実ってのことではないか。わしも殿の御意に沿い、伊達者の真骨頂を目にも見せてくれようぞ。何としても、何としても!』彼はこう思い、己を奮い立たせた。

シドニア公は使節のために二隻のガレー船を仕立ててくれた。この船に乗って支倉らはアンダルシア平原を悠然と流れるこの大河を上り人口900人ほどのコリア・デル・リオにたどり着いた。支倉はここで従者たちを新調した衣装に着替えさせ馬車に乗ってセビリアに入ろうとしていた。そして10月21日にトリアナ橋から馬に乗って市内に入り市長、貴族、群衆の祝福を受けて市長と警察長官の配列の間に挟まれる形でスペイン王家の離宮であるアルカサルという建物に入った。
 
この建物はイスラム様式とキリスト様式が融合したような荘厳な建物であった。内装は王の離宮だけあって極めて高価な装飾が施されていた。絹や羅紗でできた寝台、椅子、格調ある机、火鉢と家具類が城代であるセスペデスによって用意されていた。庭には椰子などの熱帯植物が生え、さながらジャングルのような趣を呈していた。支倉はここで噴水のせせらぎを聞きながら長旅の疲れを癒した。



アルカサルでの料理は豪華を尽くすものであった。晩餐のテーブルにはボラ、チョウザメ、ヤツメウナギ、クルマ海老などの魚介類、オレンジ、レモン、オリーブなどの柑橘類が用意されていた。支倉らはワインを飲みながらガンドゥールのパンを味わった。昼は貴族や騎士などの訪問を受け歓迎された。そしてシドニア公は使節を舞踏会や懇親会に招待し連日に渡ってもてなした。これらの厚遇はすべてソテロの執り成しによるものであった。

同市に滞在し、十日ほどを過ぎた10月27日、支倉はソテロとともにセビリアの臨時市議会に出席した。支倉は会議の冒頭で「私は日本の奥州の王の大使としてここに参りました。きょうはここにお招き頂いたことに深く感謝を申し上げます。」と挨拶し、主君伊達政宗からの金箔が施された書状を取り出して読み上げ、これをソテロがスペイン語に訳し、列席した市長や参事会員に主旨が伝えられた。
その内容は
①仙台領内での布教を望むこと
②偉大な神と敬愛して止まない市長への感謝
③仙台とセビリアの友好親善関係
④スペインと日本間での定期便の就航を望むこと
であった。

この書状が読み上げられるとセビリア市長に布製の飾り紐のついた高価な太刀と脇差が呈上された。そして首都マドリードへの旅費の支給嘆願がなされたがこの場では先送りとなった。この場での支倉の思慮深く真摯で威厳ある姿勢は多くの参席者の心を捉え、後後まで高く評価されることとなった。これには地元出身であるルイス・ソテロの名声も手伝っていたが東西交流で衰退の兆しが見え始めたセビリアの復活への期待を抱かせるものと受け止められたのであった。

実はグァダルキビル川両岸に拓けたセビリアはかつては貿易で栄えた大商業都市であった。この都市で産出された織物は船に積まれメキシコやペルーに渡り、帰路には金や銀が積み込まれスペインに莫大な富をもたらしていた。しかしこの繁栄もそう長くは続かなかった。人間社会の普遍的な事象でもある繁栄の後に来る衰退はこの町とて避けて通ることは出来なかったのである。ここに来て支倉にはそのようなセビリア否スペインの斜陽の雰囲気が初めて肌で感じられた。『もう少し来るのが早かったら…』支倉はそう思いながら懸案となった旅費の捻出に思案を巡らせるのであった。

「どう計算してもマドリードまでの旅費が足らない。」こう持ちかけられたソテロは11月2日夜、支倉とともにセビリアの有力者であるドン・フランシスコ・デ・バルデ商業会議所長宅を訪ねた。「荷物の一部を売ってもいいのでマドリードまでの旅費をいくらか負担して頂けないでしょうか?」彼がそう言うとバルデ所長は戸惑いの表情を見せ首を捻った。
 
実はバルデ所長がこの旅費の捻出に難色を示した原因となった理由は他でもなく今回メキシコに留まったビスカイノが一枚噛んでいたのであった。ビスカイノはメキシコ副王のみならず、日本特使を命じた上司のサリーナス候にも使節にとって不利な報告(①使節は徳川家康の使者でなく日本を代表するものでない。②ルイス・ソテロは信用できない人物である。③江戸でキリスト教信徒二十人が処刑されたように日本では既にキリシタン弾圧が行われている。④使節の真の目的は通商である。)を既にしていたのであった。

サリーナス候は枢密顧問会議(国王の最高諮問機関)と並び、極めて重要な機関であるインド顧問会議(貴族や聖職者で構成された新大陸の植民地の行政を司る諮問機関)の要職である議長を務める立場にもあった。出発前の仙台城の大広間での衝突に始まったソテロとビスカイノの確執は、ここに来て今や交渉に大きな支障を来すものとなっており、これは策士のソテロとて読み切れていないところでもあった。

このようないきさつもあり、使節への旅費の調達は一向に進まない状況にあった。やがてアルカサルの城代のセスペデスからは「一行はいつここをお経ちになるのか?」といった退却への催促とも受け取れるような言葉が発せられるようになった。なかなか見えない出口に支倉は日増しに困惑の色を募らせていた。これに業を煮やしたソテロは再びバルデ商業会議所長を訪ねた。「日本ではビスカイノも私も奥州の王(伊達政宗)からは特別の御高恩を賜りました。日本での旅費はすべて政宗公に負担して頂いたのです。今は逆の立場で日本の使節に恩を返すべき立場にある大国スペインが何故これを行えないのでしょうか?出来ないと言うのならこれは情けないことではないでしょうか?」ソテロにそこまで言われたバルデ所長は苦しい立場に立たさざるを得なかった。

そして11月15日セビリア市はようやく重い腰を上げ臨時会議を開いた。実は臨時会議開催の真相は事前にフェリペ国王からの通達があり旅費の一部をセビリア市が負担するよう求めてきたことに所以していたのであった。国王から直接旅費の援助を要望されたセビリアはこれに応ぜずにはいられなかったが、聖職者らしからぬ立ち振る舞いから様々な方面で手厳しい批判を受けてきたソテロとて出身地のセビリアは彼に対しては寛大であったし、その将来にかける期待も大きかったのである。

こうしたいきさつで旅費を調達できた30名からなる使節は11月25日、セビリア市が用意した荷馬車や馬車と馬に乗り首都マドリードに向かった。国王や法王への献上品は相当のものであり、四頭立ての荷馬車が5台も用意されていた。コルトバを過ぎた一行の前にアンダルシアの雄大な牧場が開けた。既に季節は初冬を迎え大草原も黄色い枯野と化していた。



牛舎はすっかり冬支度がなされサイロには干し草が蓄えられていた。支倉らはそれを横目で見ながらここを通り過ぎていった。ひどく長い道のりではあったが自然豊かで起伏に富んだダイナミックな地形が支倉の気持ちを癒してくれていた。『すべてはフェリペ国王次第』彼は馬車に揺られながらそのことだけを考えていた。ラ・マンチャ地方に近づくと草原は消え失せ、代わりに赤茶けた色の荒涼たる大地が延々と続いた。支倉は植生は違うものの、ここにサボテンがあればメキシコで見た景色と似ていると思った。

トレドと近郊のヘタフェを過ぎて一行がマドリードに到着したのは歳も押し迫った12月20日のことであった。この日は冷え込みが一段と厳しく雪が舞っていた。支倉らはセビリアで調達したマントを羽織っていたがこの冷え込みには閉口せざるを得なかった。マドリードは台地の上に形成された町で遠くから見るとまるで城壁で囲まれた要塞都市ののような面影を呈していた。そして宮殿の周りには教会などの宗教建築も高くそびえ立ち、大国の首都に相応しい圧倒的な威容を使節に見せつけた。

『我が殿の仙台城も大きいがこの都市はとてもその比ではない…、』従者も含め誰しもがそう感じた。『あの大宮殿の中に陛下が居られる。その陛下に全てを委ねるしかない。そしてここでわしは洗礼を受けるのだ。』これはけして交渉をうまく運ぼうとすることではなかった。ソテロを始め多くのキリシタンに関わってきた彼にゼウスの神へ我が身を託そうという気持ちが自然に湧き上がってきたのであった。
 
しかしキリストを信ずることは今まで彼が物心着いた時から信仰してきた仏教や神道を捨てることも意味していた。これは律儀で一途な彼には容易なことではなかった。またこのことは殿との主従関係を超えた彼自身の心の中の問題であった。もし自分がキリシタンになって日本に帰ったら母や妻子は一体どうなるのか?彼にはそのような懸念があったが、今はまず何をおいてもこの交渉をまとめ上げることだった。殿への忠誠とデウスへの崇拝の芽生え。そしてこれに矛盾する葛藤。それを思うと支倉は言い難いような複雑な思いに駆られるのであった。

ちょうどその頃インド顧問会議はこの使節の扱いに激論を重ねていた。ここで会議は政宗の扱いをイタリアの小候並みとすることを決定しフェリペ国王には使節に謁見する必要はないとしながらも、ローマ行きを強く望んでいる支倉をカトリックの国として無視していいのか苦悩していた。しかし一方で政宗の意向に沿い、使節のローマ行きを認めれば家康がこれに立腹し更にキリシタン弾圧を強めるのではないかという懸念もあった。顧問会議はこのように喧々諤々とした議論を重ねたが最終的には国王であるフェリペⅢ世の判断を仰ぐ結論に達したのであった。
続く
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