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 歴史小説「金色の九曜紋とともに」
 
  第四話「大西洋を初めて渡った日本人」
 
1614年7月22日、支倉ら30名ほどの使節を乗せたデ・アントニオ・デ・オケンド司令官の率いる船団はメキシコのベラクルス港を出港した。この航海が一般の大西洋航路と違うのは出航時期が三ヶ月ほどずれていたことであった。ここで気の早いハリケーンに遭遇すれば万事休すことになる。それだけにこの航海は危険と隣り合わせであった。
 
船団は案の定、補給地であるキューバに到達する前に嵐に遭遇した。この嵐は支倉一行が大西洋で遭遇した嵐の中では最大級のものであった。この時はサンファンバウティスタ号で太平洋を渡った時とは勝手が違っていた。第一に船の大きさは100トン級でサンファン号の五分の一ほどの船であった。しかし嵐に遭遇した時の恐怖感はむしろ500トンのサンファン号よりも感じられなかった。
 
このルートはスペインがメキシコに往復する定期ルートであり、既に数え切れないほどの実績を重ねた周航路であった。また乗組員も操船に熟達しており、支倉らは司令官の采配に身を任せる覚悟を決めていたのであった。この嵐を無事にやり過ごした一行はキューバのハバナに二週間ほど滞在し支度を整えた。常夏の島キューバの景色の様相はアカプルコとよく似ていた。ほんの少しの間であったがヤシ、サボテンなどの熱帯植物や極彩色の花が長旅で疲れた支倉の心を癒してくれた。
 
1492年コロンブスの第一次航海によった発見されたこの島はタイノと呼ばれる先住民がいたが、1511年スペインのベラスケスが率いる遠征隊によって征服され、植民地化が進むとスペイン人による虐待や強制労働、疫病によってそのほとんどが絶滅した。
 
支倉はこのいきさつをソテロから聞かされた。そしてこの征服もメキシコ同様にキリスト教の布教との引き換えであった。 この征服はスペインによるキューバの植民地化とインディオの奴隷化を一段と進めることとなった。キューバで不足した奴隷の多くはメキシコやペルーから連れてこられていたのである。

ハバナの街は日の沈まぬ帝国から来たスペイン人の栄光、誇り、野心とは裏腹に異民族に征服されたインディオの悲哀が同居していた。ハバナの街の至るところには港町特有の酒場や売春宿が多く見られた。またこの島は74年前にフランスの海賊の襲撃を受けており、これに対抗するための要塞も建設されていた。
 
支倉はそれを横目で見ながら『キューバはスペイン人冒険家コルテスによるアステカ征服のケースと酷似している。しかしそのスペイン人とて他国からはその蓄財を狙われる運命にあるのだ。』という念を持たずには居られなかった。この島には急激な成長を遂げる条件が揃っていた。当時のキューバはスペインとメキシコの中継、補給地点としての重要な役割を担い、17世紀に向け著しく発展を遂げようとしているのであった。

当時のスペイン人船乗りにとってのリスクは嵐だけでなかったこの海域にはスペインの莫大な財宝を狙う海賊(イギリス、オランダ、フランス、北アフリカ)が出没しており、貿易船の航海には武装したガレオン船の警護が不可欠であった。そして支倉らはこのガレオン船の警護を受けて船団でスペインへ向かうことになった。

ここで船が欧州に渡る前に二つばかり語っておかねばならないことがある。一つはこの事業に掛かった伊達家の莫大な費用の出どころについてである。実は政宗はこの事業を大御所や将軍に相談した際の話の筋道として、この費用の一部を幕府に援助してもらおうなどという考えは一切なかった。何故ならこの海外派遣事業が成功した暁には政宗はこの貿易によって得られる利益を独占しようと考えていたし、あわよくば幕府に対し謀反を起こそうとも考えていたからだった。
 
懇意にしていた娘婿の松平忠輝(徳川家康の六男)の越後70万石と政宗の仙台60万石を合わせれば130万石という大勢力になり、これにキリシタン30万人の力を合わせればそのチャンスが訪れないとは限らないし、或いはスペイン本国からの加勢も見込めるかも知れない。そのことが政宗の鼻息を一層荒くしているのであった。

奥州の覇者伊達政宗はこれまでも秀吉や家康という天下人や有力な大名に対して様々な貢ぎ物や金を渡し、その財力を意図的に示し、相応の処遇を受けてきた大名であった。これは今回の海外派遣に用意された金箔や銀箔の施された書状、箪笥、屏風、蒔絵鞍、蒔絵箱などを見ても明らかなことである。政宗の異国の貴人に対する贈り物はまさに半端なものではなく、どの品をとっても当時の伊達家の計り知れない財力を伺わせるに十分な逸品揃いであった。

その中でもメキシコ副王、スペイン国王、ローマ法王には伊達の財力を上げての高価な手の込んだ献上品がこれでもかこれでもかと言わんばかりに用意されていた。またこれらの献上品の他にこのガレオン式の大船を作るには気が遠くなるほどの莫大な財力が求められた。そしてこの財力の裏には他の大名には真似することができない藩の秘密が隠されていた。それは政宗の類を見ないほどの金気(金属)好きであった。政宗は金、銀、鉄などに異様なほどの執着を持っていた。鉄は銃や刀の原料になり即軍事力増強に繋がるので政宗も鉄の自国生産に大きな拘りがあった。これは南蛮からの新技術の導入でその勢いに更なる拍車を掛けていた。

また財力を蓄える大きな一因となったのが仙台藩直営の金山であった。特にこの使節団派遣の費用の捻出には陸前高田の玉山金山、本吉の大谷金山などが大きな稼ぎ頭となっていた。仙台藩はこの二つの金山から莫大な量の金を掘り出していたのだ。このため政宗はこの金づるを幕府にあばかれ、取り上げられまいと必死でカモフラージュする必要があった。
 
また政宗は金のみならず銀にも大いに興味を示した。従ってメキシコで行われていた銀の精錬術、パティオ法には並々ならぬ興味を示し、どうしても知りたい技術であった。そしてこれを知った暁には伊達の領国である鶯沢鉱山などに応用できぬものかと彼は常時考えていたのであった。

この政宗の金気好きは銃に対する執着にも繋がっていた。信長、秀吉、家康と天下人は例外なく戦では銃にものを言わせて相手を屈服させてきた。彼は藩内で産出した鉄をお抱えの鉄砲職人に回し銃を大量に生産させていたのである。そして五千丁とも言われる銃を使うチャンスが訪れるのを着々と待っていた。
 
伊達家の参謀でもあり側近として仕える伊達成実、片倉小十郎、茂庭綱元は以前殿と酒を酌み交わした時にその野心を聞かされたことがあった。「わしが領内でキリスト教布教を認めソテロらに厚遇を与えているのはむろん南蛮の最新技術である製鉄技術、新型鉄砲の技術を盗むためじゃ。あの船はわしの夢を載せているのじゃ。あの使いがうまくいった暁には南蛮との貿易による富を独占して見せようぞ。そしてその富を鉄砲増産に注ぎ込み、松平忠輝殿と手を組み幕府と一戦を交えるのじゃ。その時にはイスパニアの艦隊が怒涛の群れをなして応援に訪れようぞ。はーっ、はっ、はっ、はっ。」これを聞いた側近の者たちは主君のとてつもない志の大きさに度肝を抜かれるとともに権謀術数とも言えるその智将ぶりに舌を巻くのであった。

またもう一つ語っておかねばならないのは往時のスペインの内情である。内情と言っても日の沈まぬこの国はとてつもなく広い領土を世界各地に持っていた。併合したポルトガル、ナポリ、シチリア、エルサレム、東西インディアス、メキシコ、ペルー、フィリピン…、そのような大国の頂点に立つフェリペⅢ世は大変な権力を持っていた。彼の父のフェリペⅡ世はハプスブルク朝でスペインの全盛を築いた名君で王国の拡大と安定に強権的な手腕を振るった王であった。また彼の息子のフェリペⅣ世も積極的外交を推進し国勢の回復に努めた名君であった。

しかしながらその間に挟まれた彼(Ⅲ世)はまるで眠れる獅子であった。立派な立髪を持った雄の獅子とて眠っていれば恐るに足らないものとなろう。彼は政治にほとんど興味がなく祭り事などを行うのみで権力を持ちながらそれを駆使しようとせず、その執政を臣下のレルマ公に任せていた。また彼は内政において大きな失敗もしていた。
 
イスラム教徒からカトリック教徒に改宗した数万のモリスコス(スペイン国内のムーア人)を国外追放したために農業に大きな痛手を被り、自給自足に支障をきたし、更なるインフレを招き自分で自分の首を締めるような失態を演じていたのであった。このため彼は「平凡なる王」とか「屈辱的な平和主義者」と陰口を叩かれスペインの衰退を招いた張本人とも言える人物であった。



しかしこれは政宗はおろか当時の日本にはそのような事情を知る者などなく、せめてウイリアム・アダムスを通じて大御所や将軍の耳に1588年に起きた「アルマダの戦い」でのスペイン無敵艦隊の敗北の情報が入るのみであった。この眠れる獅子、フェリペⅢ世が今回の使節団派遣に及ぼした影響と結果は計り知れないものがあった。

支倉とソテロはスペインに向かうガレオン船サン・ヨセフ号の中で手紙をしたためていた。二人の手紙の宛先はセビリア市長とフェリペⅢ世そしてレルマ公の三者であった。ソテロの書いた手紙の内容はメキシコ副王に提出した書状と似た内容であったがソテロの場合はビスカイノから報告された汚点(①日本は徳川幕府という新政権がキリシタン弾圧をしている。②彼らは布教を拒み単に貿易を求めているのみである。③彼らに警戒を怠っていると造船術や航海術も盗まれ大変なことになる。)を晴らすために自己の置かれた境遇と政宗の意向を詳細に渡って示そうという大変な長文であった。
 
また支倉の書いた手紙は殿の意向(宣教師の派遣と領内での布教を歓迎する旨、直接貿易を望む件)を何とか果たそうとするもので、この交渉に命を賭ける彼の心意気が十分に伝わるものであった。

支倉には単なる主君と家臣の関係以上に殿に大きな借りがあった。それは二十台前半の時の大崎一揆の時に内応しそうな敵将真山式部への密使という大役を仰せつかったことに対する感謝であり、朝鮮遠征で自分を御手明衆に起用してくれたことへの感謝であり、父の切腹命令の連携で藩追放、領地没収になった自分に再び脚光を浴びせて家臣に抱えてくれたことであった。特に家臣復帰の処置は例外中の例外で、殿の格別な情けが入った処遇であるのは明らかなことであった。
 
「本来ならば今頃自分は浪人となって各地をさまよい路頭に迷い行き倒れになってその屍を野犬に貪られていたのかも知れない。」地獄に陥った自分を殿は助け、しかも仙台城下に近い場所(現支倉町)に屋敷まで拝領し、妻子を迎い入れることが出来たのは礼に尽くせない恩義であった。この殿からの恩義が彼に並々ならぬ忠義を抱かせるのであった。支倉がフェリペⅢ世に宛てた手紙には、

①山間と海上を渡る旅は非常に長いものですが多くの人々の利益のためと思えば苦になりません。
②陛下(フェリペⅢ世)ほどの御方にお目見えすることによる光栄を思うと暗い所に光が差すような喜びを感じます。
③畏れをもって地にひれ伏しながら、いと高き陛下のご厚情を賜ることを願っております。

と書かれており、まさに彼の真摯な人柄を如実に伝える内容となっている。支倉の抱いた忠義は例え命に引換えてでも殿の御意に沿いたいという決意になり、彼を一層奮い立たせるのであった。

このような背景で、様々な人間の思惑を乗せたスペインのガレオン船サン・ヨセフ号は支倉を含んだ約30名の使節とともにハバナ港を1614年8月7日に出航した。そして数度の嵐を乗り越えつつ、ほぼ二ヶ月を要しついにスペインの入口とも言えるサン・ルカール・デ・バラメダに同年10月5日入港した。これは日本人初の大西洋横断という快挙でもあった。この時、既に月浦出航から一年が過ぎようとしていた。

続く
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