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本日は先日に続き仙台市太白区の大年寺を紹介したい。二百数十段の参道の階段を登りきると平坦な地形となる。中世の頃、大年寺には粟野大膳の居城とされる茂ヶ崎城があった。粟野氏が去ってから二百数十年後、ここに新たな伊達家の菩提寺が創建された。きっかけは仙台藩四代藩主伊達綱村の黄檗宗への帰依である。両足山大年寺は一時は僧三百人を擁した仙台藩有数の大寺院であった。

※茂ヶ崎城跡には立札が立っているが、往時の城跡を偲ぶものはさほど感じなかった。残念ながら堀跡も土塁も見当たらなかったのである。

Google3D立体画像をご覧願いたい。江戸時代に描かれた鳥瞰図から大年寺のあった位置を推定してみた。仙台市野草園の敷地が相当含まれるようである。野草園の中には僧の墓があり、現存しているようだが今回は敢えて訪ねなかった。(根拠:尾暮まゆみ氏著『仙台と黄檗を繋ぐもの』)

茂ヶ崎城跡を東に二三百メートルほど進むとこのような一角に突き当たる。無尽灯廟(伊達家藩主と奥方の眠る廟所)である。ちなみにここは普段施錠されており、土日しか入れない。

配置はご覧の通り、大年寺を創建した仙台藩4代藩主・伊達綱村を正面に左右に振り分けられている。何れも江戸時代中期から幕末にかけて逝去された藩主と奥方である。

藩主と正室が眠るだけあって、無尽灯廟の内部はこのように灯篭が立っている。

ここで黄檗宗と日本の黄檗宗の開祖とされる隠元隆(いんげんりゅうき)について触れたい。(以下黄檗山萬福禅寺HPより引用)
黄檗宗の起源である臨済宗は中国で興った禅宗五家のうちの一派で、達磨大師から11代目の臨済義玄(りんざいぎげん)禅師を宗祖とする。黄檗宗は当初中国明代の臨済宗として日本に伝わった為「臨済宗黄檗派」と称した。しかし儀式作法が中国式という点で、鎌倉時代からの日本の臨済宗とは異るため、明治9年(1876年)つの宗派として独立し「黄檗宗」を公称するものとなった。根本は臨済宗の流れを汲んでいる、現在でも臨済宗各派と特に繋がりが強く「臨黄」などと総称されることもある。

黄檗宗の開祖・隠元隆中国明代末期の臨済宗を代表する費隠通容(ひいんつうよう)禅師の法を受け継ぎ、臨済正伝32世となった高僧である中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺(古黄檗)の住持だった往時、日本からの度重なる招請に応じて、承応3(1654年)63歳の時に弟子20人他を伴って渡来。のちに禅師の弟子となる妙心寺住持の龍渓禅師や後水尾法皇そして徳川幕府の尊信を得て、宇治大和田(京都)に約9万坪の寺地を賜り、寛文元年(1661年)に禅寺を創建。古黄檗(中国福清県)に模し、黄檗山萬福寺と名付けて晋山する。

黄檗宗開祖・隠元隆(1592~1673

大年寺の開祖(開山時の住職)は鉄牛道機(てつぎゅうどうき、1628~1700)である。初代住職の鉄牛道機は隠元隆の弟子筋であった。
※仙台市博物館発行「武家と禅 伊達氏とみちのくの禅宗寺院」から引用

ここで大年寺を創建した伊達綱村を紹介したい。
仙台藩主第4代・伊達綱村(1659~1719)
※仙台市博物館発行「武家と禅 伊達氏とみちのくの禅宗寺院」から引用

以下朝日日本歴史人物事典より引用
伊達騒動の際、幼くして藩主となった人物で仙台藩三代藩主の嫡男。母は三沢清長の娘初子(浄眼院)。初諱綱基幼名亀千代と言った。万治3年(1660年)2歳で襲封する当初は儒教に傾倒したが天和2年(1682年)、黄檗宗の僧侶鉄牛との対面を機に以降仏教に転じた。元禄10年(1697年)黄檗宗両足山大年寺を創建する。その他に塩竃神社の修復造営生母のための釈迦堂の建立品井沼干拓などに巨費を投じた。『伊達治家記録』の編纂を始めたのもこの時期である。元禄16年(1703年)一門以下の家臣の要請で隠居する。釈迦堂境内に設けた馬場に京都から彼岸桜と枝垂桜を取り寄せて植え士民遊楽の場所とした(榴岡公園)

※無尽灯廟の最も奥にある伊達綱村廟所

大年寺にはこのような仏像が安置されている。これは華光菩薩椅像である。
※仙台市博物館発行「武家と禅 伊達氏とみちのくの禅宗寺院」から引用

これは迦葉尊者立像である。修行をする僧のように見える。
※仙台市博物館発行「武家と禅 伊達氏とみちのくの禅宗寺院」から引用

横町挨拶
黄檗宗は禅宗には違いございませんが、法式が中国式でお経も唐音と呼ばれる独特の発音があり、異郷の仏法という印象があったようで、当初隠元隆が渡来した際はこれに排他的な見方もあったようです。それが徳川幕府の尊信を集めるに至ったのは隠元隆の人柄によるものが大きかったと察しております。但し黄檗が正式な宗派として認められたのが明治9年のことですから、隠元隆渡来以来、実に二百二十余年も掛かったことになります。これは全国的にも珍しい宗派と捉えています。

ところで、大年寺の歴代住職は人物本意で決まっていったと言います。格式に捉われない人選ですが、このあたりは新風を吹き込んだと言えるのでないでしょうか?また、萬福禅寺のホームページによると、隠元禅師の御諱誡(後世に残された訓戒)の中に「己躬下の事を究明するを務めとせよ」とあります。自己の究明に務め、昼夜たゆまぬ修行をしなさいという意味で、これは自己の究明、つまり人として生まれてきて自分はいったいどう生きるのかということです。人の為ではなく、まず自身の解決が肝要であると隠元禅師は説いたのです。儒教から禅に転じた伊達綱村はこのあたりに呼応したのでしょうか?興味は尽きないところです。このあたりは学芸委員にお聞きしたいと考えています。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

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