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 歴史小説「金色の九曜紋とともに」
 第三話「 メキシコでの使節団」
 1614年1月末、サンファン号はまだ開港したばかりのメキシコのアカプルコに入港した。月浦を出てから既に三ヶ月が経っていた。この時代船が外国の港に入るときは敵意がないことを示すために礼砲を鳴らすのが慣わしだったがサンファン号もこれに倣って十数発の礼砲を鳴らした。「あれはイスパニア(スペイン)式のガレオンだぞ!」次の瞬間、轟音とともにサファイヤ色の熱帯の空高く白煙がたなびいた。この礼砲に気づいたサンディエゴ砦からも礼砲が打ち返され、歓迎の意を示したのであった。



副王の許可が必要なために着岸当日の上陸は叶わなかったものの支倉ら日本人はビスカイノやソテロに遅れて、繋留二日目にして北緯17度の熱帯の地に記念すべき第一歩をしるした。港に降りると支倉は今まで嗅いだことのない乾いたような不思議な匂いを感じた。石を敷き詰められた目抜き通りの道路には焼け付くような強い日差しが注いでいた。彼は逸る心を抑えながら連れの者とともに町に繰り出した。道端にはダリアやポインセチア、ブーゲンビリアといった強い色彩を持つ花が咲き競うように生え、その背後には椰子などの植物が天高くそびえていた。道のそばには石でできた立派な建物があったがそれは政庁や教会などのごく一部の建物で、一般の民家の屋根は日本の茅葺きとよく似た材料で葺かれており、軒の低いものがほとんどであった。

支倉は通りを練り歩く人々の様子に目を奪われた。褐色の肌の者(インディオ)が圧倒的に多かったが、ソテロやビスカイノと同じ人種と思われる彫りの深い顔立ちをしたスペイン人も多く見られた。そして中には両方の人種の両方の特徴を兼ね備えたような者(メスティーソ)も見かけたし、髪の毛が縮れた肌の黒い者もいた。人種のるつぼと化したアカプルコには様々な格好をした人があふれており、全ては好奇の対象であった。しかしこれは見方を変えれば逆のことも言えた。着物を羽織りちょんまげを結って刀を差した連中も異郷の者から見れば奇異極まるものであり、彼らにとっては恰好の見世物であった。住民の一部は彼らをひと目見ようとして周囲に押しかけ、中には面白半分でつきまとう者さえ現れるのであった。

この日支倉らはソテロの口利きやサンディエゴの要塞司令官の計らいもあり、礼砲が鳴らされた要塞の中にある「王の館」に案内された。これは大海を越え、はるばる異郷の国からメキシコを訪ねた使節に敬意を表してのことであった。ここで支倉らはアカプルコ港長官の歓迎を受けた。「主の恵みがイスパニア国王とハセクラ大使にありますことを…」極めてテンポの速い口調のスペイン語で長官が語るとソテロがこのように訳して支倉ら日本人に伝えた。
 
しかしそれは言葉だけのものに過ぎず、長官の怪訝そうな表情が全てを物語っていた。「いったい140人もの日本からの使者は何しに来たのか?一部の者(侍)はなぜ刀を肌身離さず差しているのか?」。一見首尾のいいスタートを切ったようにに見えた一行だが、環境も習慣も全く異なる彼らにとっては真の目的すら想像できない不可解極まるもので、また大いに警戒に値するものでもあった。

数日後双方に憂慮すべき事件が起こった。ある日船に盗人が入り荷物を持ち出そうとしたのである。荷物番をしていた支倉の部下がこれに刀で切りかかり、重傷を負わせたのである。これは単なる物盗りでなく、背景には航海術を盗まれたことによる日本への恨み、フィリピン商人をないがしろにしようとする懸念が高じた怨恨(日本とメキシコの貿易ルートが確立されれば両者の中間に位置するフィリピンに金が落なくなる)が潜んでいた。この港町で商人は荷の一部を売りさばいたが長居は無用だった。

数週間が経ち副王からのメキシコシティ行きの許可を得た一行は先発隊と本体の二手に分かれて高山地帯の山越えのルートを通りメキシコシティに向かった。支倉はソテロの案内で後発隊として先発隊に数日遅れて出発した。アカプルコからメキシコシティに向かうには馬に乗って二週間弱を要する。石畳の道は間もなく赤土の道に変わり、馬車がようやく通れるオリーブ林の中の道を抜けると急に視界が開けてきた。彼らは殺伐とした砂漠の岩肌を見ながら、サボテンが生育する地帯を延々と馬やロバで進んだ。高山では日本のアカマツに良く似た木が見られた。支倉らは所々で馬を休ませながらこの木を眺め、故郷を思い日本に居る家族のことを考えた。

チルパンシンゴからイグアラを過ぎた途中で銀鉱山のあるタスコという町に立ち寄った。ここでは殿がどうしても知りたいと語っていたスペイン式の銀の精錬法(パティオ法)の秘密が埋もれているに違いないのだが、これを拒否するかのように建物の周囲には高い壁が立ちはだかっていた。支倉は道中でソテロから95年前に起きたアステカ文明の運命を聞いた。スペインのコルテスはわずか五百人の軍を率いて銃をもって数十万人のインディオを殺戮しアステカを滅亡に追いやったというのだ。彼らには大義があった。それはインディオに野蛮な生贄の儀式をやめさせキリスト教に帰依させることであった。

強者は弱者を滅ぼすのに大義が必要である。我が殿も仙道筋(福島県中通り地方)や会津を制覇した時には大義(大内定綱への寝返りへの報復)があったがそれは道義的な問題であった。これに対しスペイン人にとってのキリスト教布教は名ばかりのもので、単なる征服のための手段に過ぎないのではないだろうか。日本とて武家の武力がなければアステカと同じ運命をたどるのでないだろうか?支倉はこれを思うにつれスペイン人の浅ましさ、険しさを感ぜずには居られなかった。

メキシコシティ入りする前に憂慮すべきことが二つ起こった。アカプルコの傷害事件の波紋は意外と大きかったのである。メキシコ側の言い分は盗んだ者も悪いが日本側の殺傷沙汰はあまりにも酷過ぎるというものであった。この結果、使節団は支倉らごく一部の者を除いて刀を取り上げられることとなり、武士として面目を失い屈辱を味わうこととなった。もう一つは対立する二人のスペイン人(ソテロとビスカイノ)の間にまたしても問題が起こったことだった。徳川将軍から授かった贈り物(工芸品等)の贈り先をビスカイノが前総督にと述べたのに対し、ソテロは現総督にと主張したのである。

二人の意見は最後まで平行線を辿り、仕舞にはソテロが正使という立場を利して強引にビスカイノから贈り物を取り上げる形となった。このためこれに激怒したビスカイノはその後使節団と別行動を取るようになった。ビスカイノは支倉らよりも一足先にメキシコシティに入り副王に会い報告した。「彼らは好戦的で神を知らない。本国では徳川幕府という新政権がキリシタン弾圧をしている。彼らに警戒を怠っていると造船術や航海術も盗まれ大変なことになる。」ただでさえ日本からの待遇に不満を感じていたビスカイノはこの時とばかり、使節にとって不利なことをこう片っ端から述べた。しかしこの時の支倉にはそのような不穏な動きがあろうことなど夢にも思っていないのであった。

メキシコシティは高地にありながらも碁盤の目のような形をして拓けた大都市であった。周囲を湖で囲まれているのはこの地がかつて湖であったことを容易に彷彿させるものであった。街の中には見上げるような石造りの宗教建築(カテドラル)がそびえていた。1614年4月日から同年4月25日までの間に使節はサン・フランシスコ寺院とメトロポリタン大聖堂で三回に分けて63名が洗礼を受けた。これはサンファン号の帰りの便にサン・フランシスコ会オブセルヴァン派の宣教師を乗せて欲しいとする政宗の意向がスムーズに通るようにとの希望に沿ってソテロが仕組んだことであった。この集団洗礼が後に及ぼした影響は極めて多大なものがあった。このことは支倉がメキシコ副王のグアダルカサル侯に謁見するに至った大きなきっかけとなったのであった。そしてついに副王との接見の日が訪れた。



接見室に通された支倉とソテロはグアダルカサル副王にこう挨拶した。「私はメキシコ、フィリピンを経て日本に渡ったルイス・ソテロです。日本からの使節の案内役を奥州の王である伊達政宗公から仰せつかりメキシコへ再び参りました。ここにおられるかたが仙台藩士支倉六右衛門常長殿、政宗公の派遣した大使です。」接見は支倉が政宗が副王に宛てた書状を読み上げ、ソテロがこれを訳す形で進められた。

※政宗が副王に宛てた書状の概要
①私(伊達政宗)自身は事情があってキリシタンになれないが自分の領国の民はキリシタンにしてよい。
②ルイス・ソテロをスペイン国王とローマ法王のもとに遣わし、これに支倉常長を付ける。
③ソテロが日本に戻るのは時間がかかると思われるのでサンフランシスコ会の宣教師をサンファンバウティスタ号の帰りの便に乗せて渡海させて欲しい。その際は教会や修道院を建てて厚遇する。
④その船便にはメキシコからの商品を載せて欲しい。またその後も通商を続けて欲しい。

※支倉が述べた口上
①仙台藩は強大な藩で奥州の王(政宗)は将軍から格別の信頼を得ている。
②奥州の王はキリスト教に理解があり、将軍の次に天下を取れば日本国中の者がキリシタンになる。
③将軍は直轄の江戸ではキリスト教を弾圧しているが、他の大名にこれを強いてはいない。
④日本から来た商人については積荷の売却が済み次第、戻りの船便で帰国させて欲しい。
⑤使節の旅費の負担を願いたい。

支倉とソテロはこれらをグアダルカサル副王に伝えたがそのほとんどは決定に至らなかった。これは副王があくまで国王の代理でメキシコに遣わされたものであり決定権がないことによるものであった。また④については船に乗り込ませるスタッフの問題や船の補修を理由にこの場に於いては先延ばしにすること、⑤については難色を示す旨を告げられた。

客待遇の大使として名士の訪問を受け歓迎されていた支倉ではあったが交渉は一向に進まず、止宿先の修道院では日毎にいらだちを募らせていた。このままでは埓があかない。ここで支倉は思い切った駆け引きに出た。自分は過去に殿の命により大崎一揆で寝返った敵の家臣の交渉にあたったことがあった。『交渉事では高飛車に出るのも良くないが、下手に出て相手に足元を見られてもまずい。ここは今までの受動的な動きを改め、能動的な姿勢に転じる時期である。』

支倉はこのように考え再び副王に接見しこう述べた。「貴国が通商に応じなければ幕府はイギリスやオランダと手を組むでしょう。そして両国はメキシコや太平洋沿岸沿いの植民地を襲うことでしょう。また我々の滞在費や旅費を出さないというのなら欧州に行くのは不可能です。アカプルコ経由で日本に戻り、奥州の王に報告するのみです。従って直ちにサンファン号の出航を認めて頂きたい。」
 
返答に苦慮した副王は後日返答すると述べ本国スペインと連絡を取った。そしてついに欧州に行く旅費の資金を援助するという譲歩を引き出した。しかし実際にはスペイン国王の正式な許可が降りるまでサンファン号はアカプルコに足止めを喰らうのであった。スペイン側は日本への布教の代わりに通商を許すかどうか思索を練り、時間稼ぎをしているに違いなかった。

こうしてメキシコシティから欧州を目指すのは使節の中では30名ほどとなった。先を急がねばならない支倉であったがベラクルス港から大西洋に向けて出航する船がスペインで用意する以上は先方の都合に合わせるしか策がなかった。支倉はベラクルスに向かう途中のプエブラという町で闘牛見物の接待を受けた。日本の果し合いとも似ているが人と牛が命を賭けて決闘するのは殺生を禁じられた仏教国の日本ではありえないことであったので支倉はこれを物珍しく見ていた。そして牛が闘牛士の体でなく布のほうにばかり突進し、何度もかわされるのを見て、今の自分と副王の関係に酷似していると思うのであった。
続く
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