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 歴史小説「金色の九曜紋とともに
 第一話「波乱含みの幕開け」
奇しくもこの侍が仙台領月浦港を出港したのは今からちょうど四百年前、時代は戦国の世を経た徳川時代であった。数奇な運命を辿った侍の生涯を語る上において、そこには泰平の世を迎えつつ、果てしない野望を生涯持ち続けた主君が存在したことを忘れてならない。侍は主君の命令が全てである。主君から出陣の命があればいつでもこれに従わなければならない。また先陣(切り込み役)を言い渡されればこれを名誉と心得、応じなければならない。勿論戦の場所など選ぶことは出来ない。例えその場所が地の果て海の果てであっても主君に身を捧げる覚悟で馳せ参じなければならないのだ。

支倉常長は豊臣秀吉の時代において、朝鮮出兵の命を受けた主君伊達政宗とともに朝鮮に渡り、情報収集や築陣などの労を重ね、地味ながらその実力を認められた人物であった。但しこの時の彼には或る足かせが課せられていた。それは素行不良の実父(支倉飛騨守常成)の犯した罪の償いであった。この時代、親族が犯した罪が他の家族に及ぶのは珍しいことではなかったが彼の場合もその例外でなかった。彼は切腹を言い渡された父の連帯責任を問われ、追放処分に処せられたのである。これは伯父である支倉時正の養子になった彼にとって、後々まで暗い影を落とすものとなった。

主君伊達政宗が欧州派遣に彼を選んだ理由は三つあった。一つ目は彼の優れた交渉能力、強靭な精神力を高く評価したこと、二つ目は伊達藩の中核を成す参謀級の武将を手放すわけにいかなかったこと、三つ目は父、支倉飛騨守常成の犯した罪を挽回させ、支倉家の立て直しのチャンスを与えることであった。南蛮人40人を含んだ180人もの大所帯を統率し太平洋を渡りメキシコ経由でスペインに至る途方もない計画を主君から言い渡された時、彼は侍としてこれに勝るものはないほどの名誉を感じた。この大任を果たし、再び祖国の地を踏んだ暁には、彼には輝かんばかりの栄光が待っていよう。されど彼は寡黙を己の嗜みと心得る一人の武将として、この気持ちの高揚をけして表面に出すことはなかったのである。

この大任を言い渡された彼には先輩格の家臣や同僚から妬みを買う懸念があった。事実支倉がこの大役に抜擢されたとき、およそ三千人に及ぶ伊達家臣団の中には「たかが六百石取りの支倉が一体何故?」と思ったも者が少なくなかったのである。彼はそのような先輩格の家臣やライバルの嫉妬を感じつつもこれにじっと耐え、侍らしく何事にも動じない自身を演じなければならなかった。

出航を前にしたある日、使節団への士気高揚を旨とし、仙台城の大広間に伊達家の錚錚たる顔ぶれの重臣が居並ぶ中に殿様と対面するような形で彼らは集められていた。「皆の者よく聞け、今回の使節の正史は支倉六衛門、船長と長官はルイス・ソテロとする。大船に乗る者は皆これに良く従うべし。」伊達の殿様がこう述べると、それまで大人しく座していた探検家でもありスペインからの親日大使でもあるセバスチャン・ビスカイノは突然立ち上がり「ソテロは宣教師です。彼は素人なのでとてもガレオン船は動かせない。」と片言の日本語を用い、皺だらけで赤ら顔に憤懣やるかたない表情を浮かべ、その感情を爆発させた。

しかしこの海外派遣の目的であったメキシコ、スペインとの通商、その代償としてのキリスト教布教を考える時、殿様にはこの要求に応じるものは何もなかった。一方でビスカイノが親日大使であり、彼が居なければこの大船がとても動かせるものでないことも十分理解していた。従ってビスカイノを客人として扱うしか術がなかったのである。
 
海賊と遭遇したとき、500トン級のガレオン船なら頭数として270名の乗組員が欲しいところだが北太平洋には海賊が滅多に出ないのは既に彼の眼中にあった。現実は彼の直下の部下である40人のスペイン人船員と140名の日本人で合計はおよそ180名、ビスカイノは部下の不足については不本意であり、けして満足してはいなかったが、船長がソテロである以上、また帰国を急がねばならない以上、この決定に従わざるを得なかったのである。

ビスカイノのこのような傍若無人とも言える立ち振る舞いは「自己主張も己の実力のうち」という西洋人特有のものであったが、大広間に居並ぶ伊達家重臣の中には彼が親日大使であることを差しおいても殿の前でこのような立ち振る舞いに及ぶ者を生かしてはおけぬという気持ちを持つ者も居た。侍は己の名誉を汚された時、命懸けの行動に及ぶが目の前で主君の名誉を汚されるのは己の名誉を汚されるが同然であり、耐え難いことであった。誰が刀を抜くのか…、一瞬大広間に緊張が走った。殺気立った気配を察した参謀格の伊達成実(伊達政宗の従兄弟)が「ええい、控えよ。ここは殿の御前であるぞ。」と一喝すると、さしもの血気高き伊達武者たちもようやく我に返り静まることとなったのである。

六十歳をとうに超えたこの海千山千の探検家は本国スペインでは既に高官という立場にあり、海岸線の測量と日本近海に存在すると言われた金銀島の発見を最大の任務としていた。しかし数度の試みで金銀島の発見がされなかった以上、後は探索に最善を期したという本国への体裁を繕う必要があった。またイギリス、オランダとの激しい海戦が繰り広げられていた当時、最新鋭のガレオン船の建造技術、航行術の他国流出は祖国のもっとも恐れるところであり、これに反した者は厳罰に処せられるのが必至であった。
 
従ってこの大船の建造に大きく関わったビスカイノとしては本国からのおとがめを十分視野に入れ、船体にわざと丸みをつけたりマストの高さを低くするなどして、この船を一世代前の遺物にせざるを得なかった。また彼はこのことを政宗に知られても不都合が生じるので大芝居を打つ必要があったのである。

駆け引きに長けた百戦錬磨の老探検家にとって自分の息子ほどの年格好をし、宗教家の仮面を被った野心家のソテロが政宗からひいきにされ、大船の船長になったことは耐え難く忌々しいことであった。支倉は出港する前からこのような蟠りを持った二人の西洋人が居るのを意識せざるを得なかったが、一方でこの一大事業を成就させるには両人の協力は不可欠なものであった。特にソテロに関してはメキシコやスペインでの彼の大きなコネは交渉をスムースに進めるのに絶対的な意味を持つものであった。

野山に薄が生い茂るころ、藩主伊達政宗は十数名の家臣を率いて大船が造られている浜を訪ねた。着工から既に五ヶ月、船の周囲には丸太で足場が組まれ、船大工や鍛冶、雑役人夫が忙しく持ち場の仕事に追われていた。殿様からはなるべく人目につかぬようにとのお触れが出ていたものの後から後から訪れる見物者が絶えず、見張り番はその度に「見物無用、直ちに立ち去れ。さむなくば成敗に及ぶぞ。」と槍をかざし、怒号を浴びせるのであった。
 
船は既に九割かた出来上がっていた。この船大工の中には幕府の船手奉行である向井忠勝の配下の者も含まれていた。総勢百名ほどの職方は伊達の殿様が来ると船や足場から降ろされ一同に集められ、地面にひれ伏して土下座していたが「皆の者面を上げよ」の一言で身を起こした。そして彼らは視線は合わさずとも、隻眼から発せられる射抜くような鋭い眼光に圧倒的な存在感を感ぜずには居られなかった。

殿様は船大工の棟梁以外の職方も激励し彼らの士気を高めるのを怠らなかった。この時代に造られた西洋のガレオン船の船首には海の神の怒りを沈める為、様々な魔除けの彫り物の装飾が施されていたがこの大船に飾られていた船首像はドラゴンであった。独眼竜の異名をとった政宗に最も相応しい船首像、これは船の設計に関わったウイリアム・アダムズの計らいによるものであった。また船尾に施された伊達家の家紋である九曜紋は輝かんばかりの金色に塗られ、この大船を一層眩しいものとし、見る者に大海原に挑み、まだ見ぬ異郷の地の港に錨を下ろすその勇姿を彷彿させるのであった。

政宗は最後に大船から二町ばかり離れたところに腰をかけ、支倉、ソテロ、ビスカイノを集めた。「永常(常長)、お主もこの交渉では奥州王であるわしの名代を務める身よ、例え相手がローマ法王であろうが、イスパニア国王であろうがこれに臆することなく堂々と渡り合うがよい。さすれば大御所(家康)に一泡吹かせられようぞ。但し物言いは慎重にすべし。」「身に余るお言葉、承知仕りました。この永常、命に換えても殿の御意に沿う所存でござりまする。」口髭をたくわえた寡黙な侍はこの言葉に込められた主君の果て無き野望を察し、自らの士気を鼓舞するように力強く答えた。



試運転を兼ね、いよいよ桃浦で建造されたこの船が隣の月浦に移される時が来た。この小移動には大きな理由があった。スペイン伝来とも言える船への塗料(松ヤニ、鯨油などを混ぜ合わせたもの)の効果を近海で試す必要があったからである。移動の当日はこの全長55メートルにも及ぶ大船の威容をひと目見ようと付近の浜からは大勢の見物人が押しかけ、ちょっとした騒ぎになった。
 
そして月浦の小集落はこの試運転を終えた大船の入港とともに、支倉を頭とした仙台藩士、ソテロ、ビスカイノ、幕府から派遣された船大工、スペイン人乗組員や商人などが徐々に入江を取り巻き、付近の寺、神社、あばら家に止宿した。そして出港を前にした数日の間は荷を積んだ馬や牛が遠方から訪れた。小さな港は荷や水などの積み込みに人足が船と岸を何度も往復し、半島の小さな漁村はにわかに活気づくのであった。
 続く
※みちのく春秋に私が寄稿した『金色の九曜紋とともに』は東北各地の図書館の蔵書にございます。
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