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      井上靖「氷壁」 (1956年発表)
昭和31年(1956年)24日から昭和32年(1957年)22日まで朝日新聞に連載され1957年に新潮社から単行本が刊行されベストセラーとなる。昭和38年新潮文庫になり、平成9年埼玉福祉会から「大活字シリーズ」が発刊される。

     あらすじ
舞台は昭和30年の年末。ある広告代理店に勤務する新鋭登山家魚津恭太(32歳)は、翌年の昭和31年正月にかけて、親友の小坂乙彦と共に前穂高東壁の冬季初登頂の計画を立てる。その山行の直前、魚津は偶然にも小坂の思いがけない秘密を知る。小坂は、人妻の八代美那子とふとしたきっかけから一夜の誤ちを犯し、その後も横恋慕を続けて、美那子を困惑させているという。
 
※前穂高の全容(インターネットより引用)

不安定な心理状態の小坂に一抹の不安を抱きつつ、魚津達は穂高の氷壁にとりつく。吹雪に見舞われる厳しい登攀のなか、頂上の直前で小坂はかすかな悲鳴とともに滑落。深い谷底へ消えていった。二人を結んでいたナイロンザイルが切れたのだ。必死に捜索するも小坂は見つからず、捜索は雪解け後に持ち越されることになった。
 
※実際に昭和30年に滑落事故が発生したとされる場所(インターネットより引用)

失意のうちに帰京する魚津。そんな思いとは裏腹に、世間では「ナイロンザイルは果たして切れたか」と波紋を呼んでいた。切れるはずのないザイル。魚津はその渦に巻き込まれていく。ナイロンザイルの製造元は、魚津の勤務する会社と資金関係があり、さらにその原糸を供給した会社の専務は、小坂が思いを寄せていた美那子の夫・八代教之助だった。
 
この後、魚津は雪解けを待って小阪の妹、かおるとともに亡き友人の遺体を回収しに行くのであった。小阪の遺体を発見し山の仲間とともに彼の遺体を荼毘にふした後で魚津はかねてから思いを寄せられていたかおるから求婚された。この後魚津は気があった美那子に別れを告げ、裏穂高に登り難所を過ぎてから途中の山小屋でかおると落ち合う約束をする。しかし…

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     読後感想
復興が順調に進み戦後という言葉が死語となりつつある昭和30年、折しも主人公の魚津と私の亡き親父の年齢が近いことがストーリーへの一層の興味に繋がった。また登山をされるかた方から見れば、この作品は他人事のように感じないのではないだろうか?
 
そういう私は学生時代の林間学校でごく低い山(宮城県の泉ヶ岳、山形県の天元台)に登った程度でこの作品に登場するような本格的な登山の経験はない。ところが社会に出てから職場で連休を取って中央アルプスなどの登山に出かける同僚がおり、私は彼のことを羨望の目で見ていた。
 
命懸けで冬場の氷壁にクライムするその姿はもはや趣味の領域を超え、神聖で崇高なものに映った。そんな彼は職場ではアマチュア登山家として特別視される存在だった。彼には命を掛けて何かを成し遂げようとする者のみが発しうるオーラがあった。これだけで人から尊敬を集め信頼に値する人間として通っていた。
 
この作品は昭和30年に実際に起きた山での滑落事故をモデルに靖が脚色しており、ストーリーの焦点は二人を繋いでいたザイルが偶然切れたのか、故意に切られたものであるか(小坂の自殺、魚津が助かりたいために切った)に注がれているようだが、読み進んでいくうちに二人の登山家と二人の女性(美那子、かおる)の恋愛小説がメインと受け取った。おそらく大方の人はそう思うのではないだろうか?
 
しかし一方で小説家にとって自分の書いた作品を多くの人に読んでもらい、様々な解釈をされるのは覚悟の上であり、ある意味で本望なのではないだろうか?人は自己を主観視しがちである。この善し悪しは実生活ならともかく小説や演劇や映画では主観視できるか否かがその作品にのめり込めるかどうかの大きなポイントである。従って小説を読んで主人公と自分の共通点に目が行くのはごく自然なことと言える。
 
私はそのような理由で今回の主人公を山好きの会社の同僚以外に自分の親父にも重ねた。生前の親父は登山はしなかったが役所勤めをしており、本作の昭和30年の東京を舞台にした主人公のサラリーマン生活(古き良きアナログ時代に於けるデスクワーク、上司や同僚との付き合い、退社してからの息抜き…)は若い頃の親父の横顔を見る思いがした。
 
また作品中には西銀座や有楽町などが随所に登場し往時の繁華街の小料理屋や喫茶店、街行く人の往来の様子などが描かれており、臨場感を一層際立たせているところに惹かれた。おそらくこの描写には新聞記者時代の靖の経験が相当活かされているのではないだろうか。
 
場所こそ違うものの親父もこれに似たようなサラリーマン生活を送ったのかも知れない。私はこの辺りに人とは違った自分なりの付加価値を見出すことが出来た。あらすじを途中で打ち切ったようにこのストーリーを最後まで書くのはタブーと心得る。それは結末があまりにも哀しいからである。しかしこの哀しさが穂高の氷壁を崇高なものにしているのでないだろうか?また登場人物を誰一人として悪者にしていない配慮に靖の良心と誠実な人柄を感じた。
 
本ブログ井上靖シリーズ
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