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  宿敵蘆名を滅ぼし奥州王となった伊達政宗
 まずこの宮城県民謡「さんさ時雨」をお聞き頂きたい。この歌は以前にも本ブログで紹介したことがあるが、宮城県人(一部岩手県南部の旧伊達領)であればほとんどが知るところの歌であり、婚礼や上棟式などめでたい席ではなくてならない歌でもある。
宮城県民謡「さんさ時雨」
 さんさ時雨か萱野の雨か
音もせで来て濡れかかるショウガイナ
さんさふれ~五尺の袖を今宵ふらぬで何時のよに
 
武蔵あぶみに紫手綱かけて乗りたや春駒に
門に門松 祝に小松かかる白雲 みな黄金
この家お庭の三蓋小松鶴が黄金の巣をかけた
 
この家座敷は芽出度い座敷鶴と亀とが舞い遊ぶ
芽出度嬉しや思うこと叶うた末は鶴亀 五葉の松
扇芽出度や末広がりで重ね~の お喜び
 
雉子のめんどり 小松の下で夫を呼ぶ声 千代々々と  
 
さんさ時雨か萱野の雨か
音もせで来て濡れかかるショウガイナ
さんさふれ~五尺の袖を 今宵ふらぬで何時のよに
 
武蔵あぶみに紫手綱 かけて乗りたや春駒に
門に門松 祝に小松 かかる白雲 みな黄金
この家お庭の三蓋小松 鶴が黄金の巣をかけた
 
この家座敷は芽出度い座敷 鶴と亀とが舞い遊ぶ
芽出度嬉しや思うこと叶うた 末は鶴亀 五葉の松
扇芽出度や末広がりで 重ねの お喜び
 
               はしがき
 一説によるとこの歌は戦国時代の東北の覇者を決めた摺上原の戦いで勝利を納めた伊達軍がその戦果に歓喜して作った歌とされている。但しこれはけしてきれいごとだけでない。その陰には戦ならではの覇者に対する強い風当たり、滅亡に追い込まれた武将の憂も感じられるのである。具体的に申し上げると、福島県中通りや会津に於いては今でも伊達に対するわだかまりがないとはいい難のである。勝者と敗者の感情の交錯、戦とは古今を問わずそのようなものではないだろうか?
 
 それでは伊達と蘆名の雌雄を決した摺上原の戦いとはどんな戦いだったのだろう。今回はNHKで放映された独眼流政宗のDVD映像とともにその概要をお伝えしたい。この戦いに至るまでのいきさつは前回の人取橋の戦いを参照して頂きたい。この摺上原の戦いは伊達と蘆名の一連の対立の最後の決戦であり人取橋の戦いとはセットで捉えて頂きたい。
 
 実はこの時の伊達軍は蘆名の居城があった会津方面(写真の表示では猪苗代城)と仙道筋の須賀川(蘆名の大軍が詰めた場所)に勢力を裂かずにはいられなかったのである。猪苗代のほうには政宗の両腕であった伊達成実と片倉小十郎が配置され自ら捨石となって政宗本隊の援護となる腹積もりであった。果たして須賀川に向かった政宗の心中は如何に。



ここで政宗のとった行動は信じがたいことであった。なんと1万5千の本隊を逆戻りさせ、猪苗代の近くの阿子ヶ島城に向かうというものであった。「成実と小十郎は俺の両腕である。両腕の討ち死にをやすやすと見過ごすわけにはいかぬ!」須賀川に向かうと見せかけたのは政宗の陽動作戦であったのだ。


政宗の策略はこれだけではなかった。伊達成実がこの時の鍵を握る人物であった猪苗代盛国に呼びかけ、これに応じた盛国は伊達に寝返り、嫡男を人質として差し出し、伊達がたに附したのである。
※政宗に忠臣することを誓う猪苗代盛国。(右端は小十郎)

政宗の用意周到な根回しはこれだけに留まらなかった。相馬を牽制し動けなくする意味で相馬との領境に兵を繰り出し、その帰りには生まれて初めて海を見物してきている。
※政宗の相馬牽制に同行する家臣鬼庭綱元

そして蘆名の大軍は政宗の睨んだ通り猪苗代湖を西回りしてきたのであった。このとき伊達軍猪苗代盛国の居城の猪苗代城に移り、もはやこの戦いの場所は会津磐梯山山麓の摺上原になると踏んでいた。

※戦に備え摺上原を視察する伊達成実と片倉小十郎、政宗自らの援軍を得て彼らの士気は嫌がおうにも高まっていた。ここは猪苗代湖を見下ろす場所でもあった。

北に目を移すと雄大な会津磐梯山がそびえている。

これはサッカーやアメリカンフットボールでいうフォーメーションと言っていいだろう。 この時の両軍の勢力は異説もあるものの、伊達軍2万1千、蘆名軍1万八千とほぼ互角であった。奥州の覇権を掛けた一大決戦はまさに今、戦いの火蓋が切られようとしていたのである。

ここで両軍の総大将を紹介する。
          伊達政宗(1567―1636

 奥州の戦国大名。仙台藩祖。永禄10年8月3日米沢城主伊達輝宗の長男として誕生。母は山形城主最上義守の娘。幼名梵天丸。1577年(天正5)元服し藤次郎政宗と称し、1579年三春城主田村清顕の娘愛姫と結婚、1584年家督相続
 
 父の死後、1589年蘆名氏を破り会津を掌握し、須賀川二階堂氏を滅ぼし、石川、白川両氏を服属させて、現在の福島県の大半と米沢地方および宮城県にわたる大領土を築いたが、1590年豊臣秀吉に服属し、会津などを没収された。1591年米沢・伊達など旧領6郡のかわりに大崎・葛西両氏の旧領を与えられ、玉造郡岩出山宮城県大崎市)に移る。
 
 1600年(慶長5)関ヶ原の戦いののち、徳川家康から刈田郡を与えられて60万石(のち62万石)を領し、翌年仙台城築城し居とする。1607年塩竈神社、大崎八幡宮、国分寺薬師堂、1609年松島瑞巌寺を造営し、1626年(寛永3)には北上川下流治水の土木工事を完成させて、仙台藩の米作と江戸廻米の基礎を築く
 
 南蛮との通商を企図し1613年家臣支倉常長を欧州に派遣したが、幕府の切支丹禁制強化のため目的を達しなかった(1620年帰国)。
 
 1585年従五位下美作守、1591年侍従兼越前守、羽柴、1597年(慶長2)従四位下右近衛権少将、1608年陸奥守、松平姓、1615年(元和1)正四位下参議、1626年従三位権中納言となる。寛永135月24日江戸桜田邸で70歳にて死去。
 
          蘆名義広(1575~1631)

 天正年、佐竹義重の次男として生まれる。天正年(1579年)白河義親の養子となるが、蘆名盛隆の子亀王丸が夭折したため、天正15年(1587)盛隆の養女と結婚して蘆名義広と名乗り、蘆名氏当主となる。しかし幼少であったために家臣団を掌握することができず、天正17年(1589)、従兄にあたる伊達政宗との摺上原の戦いで大敗し、黒川城は落城、実家佐竹氏の常陸に逃れた。常陸に逃れる際随従した従者の数を、『会津史』は20人あまり、『会津合戦記』は女中を併せて119人と記述している。
 
 政宗が奪い取った蘆名領は豊臣秀吉により没収されたが、蒲生氏郷に与えられて義広への返還 はなされなかった。その後、秀吉から常陸龍ヶ崎に4万石、次いで江戸崎に45,000石を与えられた。慶長5年(1600関ヶ原の戦いで兄の佐竹義宣が西軍に与したために所領を没収され、慶長7年(1602)義宣、義重とともに秋田領に入り、名を義勝と改め、仙北郡角館に1万6千石を与えられた。
 
※摺上原は極めて見通しが利く地の利であるが敵から狙われやすい。ここで伊達軍は鉄砲隊を始めとした兵を林に隠す作戦に出た。

「皆の者出陣じゃー!」この機を待っていた政宗の軍配が返った。

今から数えること424年前、ほぼ互角の勢力で激突する両軍。

戦いの当初は蘆名が主導権を握った。蘆名軍は二隊に分かれて伊達郡の先陣であった猪苗代盛国を挟み撃ちにする策に出た。これが功を奏してか伊達軍は第二軍の片倉隊とともに押し込まれることになる。

しかし午後になるとそれまで風下だった伊達に神風が吹く。なんと風向きが東風に変わったのである。
         摺上原の戦い
 1589年7月17日天正17旧暦6月5日)に磐梯山裾野の摺上原(福島県磐梯町、猪苗代町)で行われた伊達政宗と会津蘆名義弘との合戦
 
 伊達政宗は人取橋の戦い以降、蘆名、佐竹との対決姿勢を強めながら、仙道筋(現在の福島県中通り)で勢力を拡大しつつあった。一方、それに対する蘆名、佐竹の危機感は高まっていた。伊達政宗は蘆名氏の本拠会津を奪うべく行動を開始する。だがそれは豊臣秀吉が出した惣無事令を無視する行動であった。
 
 政宗は猪苗代盛国の内通で本宮から会津への道を確保すると猪苗代城を拠点にし、一方の蘆名義広は須賀川城から猪苗代湖南岸を進み、軍を黒川城集結させる。高森山に布陣した蘆名勢は民家に火を放ち伊達勢を挑発する。

 しかしながら蘆名軍には1580年蘆名盛氏の死去以来主家に不満を持つ者、伊達に内通する者、佐竹より送り込まれた当主・蘆名義広に対し不満を抱く者などがおり、その様々な思惑から団結力に乏しかった。合戦は猪苗代湖の北岸、磐梯山の裾野である摺上原で行われた。
 
 開戦当初は西からの烈風が追い風となり、また先鋒、富田将監の活躍もあって、蘆名軍が有利に戦っていたが、その後風向きが東風に変わると伊達軍が逆に圧倒し始め、蘆名軍は総崩れとなった。敗走する蘆名軍は日橋川によって黒川城への帰還を妨げられ、被害が拡大した。蘆名義広は実家である佐竹氏を頼って常陸国へ敗走した。
 
※戦いは4時間で決着した。勝ち名乗りを挙げる伊達軍、成実も小十郎も無事であった。

              まとめ
かくして奥州分け目の合戦は伊達軍の勝利に終わる。この後勝利した政宗は余勢をかって須賀川の二階堂氏も撃破するに至る。この一連の戦で伊達は百万石を超える領土を手にすることとなった。これは伊達氏の最盛期とも言える時期でもあった。しかし政宗の背後には既に豊臣秀吉の強大な権力が迫っていたのであった。
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