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 政宗の野心、支倉の忠誠、家康の大局観 
 複数存在する政宗の遣欧使節団派遣の理由
 伊達政宗の慶長遣欧使節団派遣の目的はこれまで様々な研究、推測がされてきた。主なものには①通商説、②軍事制圧説、③天下制覇説などがあり震災後はにわかに④震災復興説までもが浮上してきた。この中で私は①と③を支持したい。④については全くの否定はしないが様々なシーンで伊達政宗の抱いた天下取りへのスタンスを見るにつけ、③の理由を差し置き、この上に出るものではないと解釈している。この件について反論があればこの場で承る所存である。
 
 ①に関しては使節団がメキシコやスペインで差し出した書物からも疑う余地はないが③については様々な物議を醸し出してきた。私は③を上位にランクする大きな論拠としてジェロニモ・デ・アンジェリスのイエズス会本部に宛てた書簡(1620年)と使節団の正使ルイス・ソテロが当時のスペインの宰相に宛てた手紙(NHKTV2007年12月放映「伊達政宗ヨーロッパにかけた夢」より)の二つを挙げる。
 
 伊達政宗は幕府の追及を恐れて使節派遣に関する多くの書簡を処分したと思われるがジェロニモとソテロの書簡は海外に保管されていたために残ったのである。彼ら二人が口あわせをしてない限り、政宗の天下取りへの野心を裏付けるものと捉えていいのではないだろうか。
※大泉光一著「メキシコの大地に消えた侍たち」

 ジェロニモ・デ・アンジェリスのイエズス会本部に宛てた書簡の中で天下取り説の根拠とされる部分は二か所でA、天下殿(徳川家康)は政宗がスペイン国王に使わした使節のことを知っており、政宗は天下に対して謀反を起こす気であると考えていた云々。」という部分とB、彼ら(家康及び秀忠)は政宗が天下に対して謀反を起こすため、スペイン国王およびキリシタンと手を結ぶ目的で支倉常長を派遣したと考えたのであり、徳川将軍の船奉行である向井将監がそれを政宗に伝えた。」(ARSI.Jap.Sin.34.Documento NO1~5f31)という部分である。

 大泉光一氏によると幕府は政宗の討幕の意志に気づいていながら確たる証拠がなかったため責任を追及することができなかったのではないかと述べている。その後の幕府による一連のキリシタン弾圧の強化はこのことに危機感を抱いた家康の対抗措置とも受け取れるのでないだろうか?
 
※ジェロニモ・デ・アンジェリス(1568~1623) 
 
 イタリア出身のイエズス会神父。シチリア島に生まれる。18歳のときにイエズス会に入会。東洋の宣教を志願し、1595年にポルトガルを出発したが、台風にあって引き返す。1599年リスボンで司祭叙階。3月再出発して、1602年7月来日。有馬で日本語を学び、翌年伏見の新しいレジデンスに送られた。1611年駿府にイエズス会の布教所を新設し、1613年江戸で活動する。1614年の伴天連追放令後も日本にとどまり、1615年後藤寿庵の招きによって仙台に行った。
 
 毎年東北地方を巡回し、1618年には宣教師としてははじめて蝦夷に渡った。1622年ごろ江戸に移り、竹屋権七の屋敷に潜伏していたが、1623年10月捕らえられる。高輪の札の辻で、50名の信者と共に火刑に処せられ殉教
 
 またルイスソテロがスペインの宰相に宛てた書簡にははっきりと「政宗は幕府によって迫害を受けている日本の30万人の力を得て幕府を倒し、みずから皇帝になろうとしている。」と書いてある。ルイス・ソテロ自身が我が国の大司教の座を目指しており、野心家で策士であったとする説は確かに多いのだが、このようにアンジェリスの書簡と見解が一致するのはやはり政宗の本意であったと解釈できるのではないだろうか。

                                 ※ルイスソテロ(1574~1624)

 1603年宣教師としてフィリピン総督の書簡を携えて来日。徳川家康や秀忠に謁見、日本での布教に従事した。1609年(慶長14年)には上総国岩和田村(現・御宿町)田尻の浜で座礁難破し、地元の漁民達に助けられた前フィリピン総督ドン・ロドリゴとの通訳や斡旋にあたる。また仙台藩主・伊達政宗との知遇を得、東北地方にも布教を行う。
 
 1613年、布教が禁止され捕らえられるが伊達政宗の助命嘆願によって赦され、慶長遣欧使節団の正使として支倉常長らとともにヨーロッパに渡る。その後当初の目的を果たせず1617年、マニラ経由で日本に戻る。1622年、長崎に密入国した後に捕らえられる。この時はさしもの伊達政宗の助命嘆願も受け入れられず、1624年(寛永元年)に大村でフランシスコ会の宣教師2名、イエズス会とドミニコ会の宣教師各一名と共に火刑にて殉教する。
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