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弱冠19歳で奥州の名門蘆名氏と激突する伊達政宗
 今回の伊達政宗の戦シリーズは家督を継いだ政宗が破竹の勢いで現福島県中通りにあたる仙道筋を次々に制覇していった様子をお伝えする。今回は87年にNHKで放映された「独眼竜政宗」の映像を基に、政宗に関するの出来事をタイムテーブルでご説明する。今回紹介するのは摺上原の戦いの前座とも言える「人取橋の戦い」である。その前に奥州において雌雄を決した伊達氏と蘆名氏のプロフィール(Wikipediaより引用しミックが編集)をご覧頂きたい。
 
※伊達氏 
 藤原氏に祖を発するとされる奥州屈指の戦国大名。天正12年(1584年)に当主になった17代伊達政宗は強硬な領土拡張政策を進めて、会津の蘆名氏や奥州探題・大崎氏と戦い、天正17年(1589年)には蘆名氏を摺上原の戦いで破り、これを滅ぼして領土は最大となった。(その時の領地は宮城県南部から福島[相馬領を除く]、新潟の一部にまたがる極めて広大なもので110万石~150万石とも言われる)
 
 しかしこれは関白・豊臣秀吉が発した惣無事令に背くものであったため、天正18年(1590年)に政宗が秀吉が服属した後の奥州仕置では会津・河沼・耶麻・岩瀬・安積などを没収され、伊達氏旧領および田村郡72万石のみを安堵された。しかし同年に起きた葛西大崎一揆を政宗が煽動していたことが露見したため翌天正19年(1591年)の一揆鎮圧後に国替を命じられ、旧葛西・大崎領13郡を与えるかわりに伊達郡など旧領6郡を没収されて58万石に減封され、米沢城から岩出山城(現:大崎市岩出山)へと居城を移した。
 
 その後伊達政宗は関ヶ原の戦いで徳川家康に味方し、その恩賞として62万石に加増された。翌年には仙台城を築いて岩出山城から移り、江戸時代を通じて国持大名の家格を維持し、仙台藩62万石の大藩として繁栄した。伊達宗家の当主は家督相続時権少将に任ぜられ、極官は従四位上権中将に昇った。外様大名の中では別格の扱を受け、将軍家から降嫁がある数少ない家のひとつとされ、松平の姓を与えられた。
 
※蘆名氏
 室町時代には京都扶持衆として、自らを「会津守護」と称していた。戦国時代に蘆名盛氏が現われ最盛期を迎え、奥州で伊達氏と並び称される有力大名となる。しかし、蘆名氏は一族猪苗代氏をはじめとする家臣の統制に苦慮し、さらに盛氏の晩年には後継者問題も発生した。
 
 そのため1580年、盛氏の死とともに蘆名氏は次第に衰え始める。盛氏の死後、二階堂氏からの人質の二階堂盛義の子が婿養子として後を継いだ。蘆名盛隆である。周辺諸氏と友好を保ち伊達氏に対抗したり、織田信長に使者を送るなど積極的な政策を打ち出すが、家中の統制には苦慮している。
 
 1584年に近従の大庭三左衛門に暗殺され、その後を継いだ盛隆の遺児亀若丸(亀王丸)も1586年に3歳で夭逝。そして家臣団が揉めに揉めた末、佐竹義重の子・蘆名義広を蘆名家当主に迎えた。1589年、奥州統一を目指す伊達政宗に摺上原の戦いで大敗した蘆名義広は常陸に逃走し、蘆名氏は没落した。
 
※蘆名氏が居城とした鶴ヶ城

人取橋の戦いのタイムテーブル
・1584年10月(天正12年)政宗家督を継ぎ伊達家17代当主となる。
・1585年4月(天正13年)小浜城主大内定綱が謀反の意志を示す。(伊達に仕える意志を示し米沢に屋敷を与えられるも、一時帰国したのちに戻らず逃亡)
 
※家督を相続した伊達政宗に謁見する小浜城主大内定綱、この謁見が謀反に繋がり伊達政宗の蘆名攻めのきっかけとなる。
 
※大内定綱
 父、義綱の代に田村氏の内応工作に応じて主君石橋尚義を追放し、塩松領主となって田村氏の旗下に属していたが、家督を継いだ定綱は、田村、大内両家の家臣同士の争いの裁決に対する不満から、次第に田村氏からの独立を目論むようになる。天正10年(1582年)、伊達輝宗の相馬攻めで小斎城を攻略した際に、輝宗の陣に参上して伊達傘下に入り、以降は対相馬戦に度々従軍する。
 
 またこの頃、娘を二本松城主二本松義継の子国王丸に嫁がせて血縁関係とする。こうして天正11年(1583年)、田村領の百目木城主石川光昌を攻撃、田村氏と対立していた蘆名盛隆の支援を受けて田村清顕を破り独立を果たす。しかし、天正12年(1584年)に輝宗の子・政宗(正室は田村清顕の娘・愛姫)が家督を継ぐと、定綱は引き続き伊達氏への奉公を表明したものの、翌天正13年(1585年)、政宗は田村氏に加担して定綱を攻撃し、小手森城で撫で斬りを行うなどしたため、定綱は小浜城を放棄して二本松へ逃れ、更には会津の蘆名氏を頼った。
 
 天正16年(1588年)、郡山合戦の際には蘆名氏の部将として苗代田城を攻略するが、伊達成実の誘いに内応し弟の片平親綱と共に伊達氏に帰参した。以後は、摺上原の戦いや葛西大崎一揆鎮圧、文禄、慶長の役にも従軍して功績を立て天正19年(1591年)、政宗が岩出山城に転封されると、胆沢郡に一万石の所領を与えられ、前沢城主となる。

※米沢に居を構える往時の伊達藩の侵攻ルートを下の地図で確認して頂きたい。赤線の檜原峠越えが最短距離であったが政宗は躊躇なくこれを選択している。

会津の蘆名攻めに出陣する米沢城の伊達軍。

※檜原峠に本陣を構えた伊達軍は5月2日果敢に蘆名氏を攻めるも反撃に合う。

この戦で思うように戦果の上がらぬ政宗はいらいらを募らせていた。「大がかりな陣ぶれじゃ!」と息巻く政宗に家臣である片倉小十郎影綱の「将たる者が平常心を失っては全軍の指揮に関わりますぞ!」と告げる。この忠告に対し政宗は「そのもの言い聞き捨てならぬ。この俺に指図する気か」と逆上し小十郎に刃を向ける。

 
※片倉小十郎影綱
 伊達成実と並ぶ伊達政宗の有能な家臣。弘治3年(1557年)置賜郡永井庄八幡神社の神職・片倉景重の次男として生まれる。生母は本沢刑部真直の娘。異父姉は政宗の乳母の喜多。伯父に意休斎景親。鬼庭綱元(喜多の異母弟)は義理の兄に当たる。景綱が幼いとき、両親が相次いでなくなってしまう。姉の喜多とは年が離れていたため、母のような存在で、景綱は喜多に養育されていたが、まもなく、親戚の藤田家に養子として預けられた。
 
 天正13年(1585年)の人取橋の戦いや天正16年(1588年)の郡山合戦、天正17年(1589年)の摺上原の戦い、天正18年(1590年)の小田原征伐、文禄2年(1593年)の文禄・慶長の役、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いなど政宗の主要な戦争の大半に参加して、いずれも伊達氏の危難を救っている。小田原征伐に際しては豊臣秀吉方へ参陣するよう述べ、伊達政宗に小田原参陣を決意させた。
 
 また、城代においては安達郡二本松城在番、信夫郡大森城主、奥州仕置き後は、佐沼城主、亘理城主などに任ぜられた。景綱は伊達氏の対外交渉における取次を担当し、伊達政宗の発給した外交文書の多くには景綱の副状が添えられている。関ヶ原の後の慶長7年(1602年)、主君政宗が仙台藩主になると一国一城令が敷かれる中、特例として残された白石城1万三千石の城主を賜る。
 
 お気に召さねばこの場で小十郎を御成敗ください。但しこれだけは申し上げます。戦には駆け引きがござる。押すべきは押し、引くべきは引くが当然、成算なくして猪突猛進するはこれ匹夫の勇(思慮分別無く血気にはやる気持ち)にあらずしてなんぞや!と政宗をにらむ片倉小十郎影綱。さしものいきり立った若武者も体を張った小十郎の言葉に刀を納めた。
 
片倉小十郎の説得がものを言い、政宗は兵を米沢に引き上げる決断に及ぶ。

・同年8月24日小浜城の出城であった小手森城を攻め大殺戮(八百人斬り)を行う。
・同年9月25日定綱が二本松城主畠山義継を頼り会津に逃亡する。
 
※小手森城で政宗の隻眼を侮辱し挑発する雑兵

伊達軍の鉄砲隊の発砲でついに戦火が広がる。門を破り一気に小手森城になだれ込む伊達軍。

「定綱はどこに居る?」定綱逃亡を知り、「女子供から牛馬虫けらにいたるまでおよそ命のある者はすべて打ち果たすべし!」と告げる政宗。ここで奥州を震撼させる八百人の撫で切りが行われることになる。

・同年9月26日政宗小浜城に移る。
・同年10月8日畠山義継が伊達氏への投稿を装い輝宗を拉致、追撃した政宗は父ともども義継を討つ。
※苦渋の決断で父を畠山義継とともに討ち悲しむ政宗。

※輝宗が荼毘に付された寿徳禅寺。

※伊達輝宗を拉致した畠山義継
 天文21年(1552年)、二本松氏第8代当主・二本松義国の嫡男として生まれる。天正8年(1580年)に父・義国が死去する以前には家督を継いでいたものと思われる。天正13年(1585年)、伊達政宗が岳父・田村清顕と共に大内定綱を攻めると、定綱と姻戚関係にあった義継も政宗から攻撃を受けた。
 
 義継は政宗に降伏を申し出たが政宗は義継を許さず、二本松付近のわずかな土地を除いて所領をことごとく没収し、大名としての地位を維持できない状況にまで追い込もうとした。この条件は政宗の父で隠居の輝宗や伊達成実らの斡旋で緩和されたものの、政宗を深く恨んだ義継は、10月8日に宮森城に居た輝宗の許へ参上した際に、輝宗を拉致して二本松城へ連れ去ろうとしたが、途中の高田原で政宗に追いつかれ輝宗もろとも射殺された(粟之巣の変事)。享年34。あるいはこの時輝宗と刺し違えて死んだともいう。義継の遺体は政宗により斬り刻まれ、その上、藤蔓で繋ぎ合わせて無残に吊るされたという。

・同年10月15日二本松城を攻めるも大雪のため同月21日帰還する。
・同年11月10日佐竹、蘆名、岩城、白河、相馬、二階堂、石川などの連合軍が三万の軍勢で伊達領安積郡に侵入
※428年前に戦場となった人取橋古戦場跡。

現代の人取橋、とても激戦が繰り広げられた場所とは思えない。

「独眼竜政宗」で放映された人取橋、この戦が展開されたのは今の暦では積雪のある12月末であった。

・同年11月16日政宗、伊達軍八千を要地に配し、片倉影綱らを率いて観音堂山に陣を進める。

・同年11月17日、本宮城を出た政宗は、安達太良川を渡って南方の観音堂山に布陣する。

 前日のうちに五百川南方の前田沢に布陣していた佐竹および南奥諸大名の連合軍は、伊達本陣をめがけて北進を開始し、瀬戸川(阿武隈川支流)に架かる人取橋付近で両軍が激突する。この時伊達勢は二本松城に包囲網を敷いていたために兵力の二分割を余儀なくされた。伊達軍と連合軍の兵力差は7,000対30,000と4倍以上であった。
※激戦が繰り広げられた人取橋。

 戦闘は連合軍の一方的な攻勢に終始した。兵数に劣る伊達軍はたちまち潰走し、連合軍は伊達本陣に突入、政宗自身も鎧に矢1筋・銃弾5発を受けた。敗色濃厚となった伊達軍は政宗を逃がすべく、軍配を預かった老将鬼庭左月斎が殿を務め、人取橋を越えて敵中に突入して奮戦し討ち死にを遂げた。
 
※政宗を敵から逃がした老臣鬼庭左月は息子綱基に看取られながら殉死する。

 また東方の瀬戸川館に布陣していた伊達成実の隊も、挟撃を受けて猛攻を浴びたが、踏み止まって力戦し時間を稼いだため、政宗は辛うじて本宮城に逃れた。

ところが同日夜、佐竹家の部将・小野崎義昌(義重の叔父)が陣中で家臣に刺殺されるという事件が発生し、さらには本国に北条方の馬場城主江戸重通や安房の里見義頼らが攻め寄せるとの報が入ったため、佐竹軍は撤退を決定し伊達軍は奇跡的な勝利を納める。
 
      コメント
 ここでこの地図をご覧頂きたい。この伊達軍の奇跡的な勝利の裏には用意周到な裏工作が存在したのではないだろうか?「独眼竜政宗」には悩める政宗にヒントを与える虎哉和尚が登場する。そのヒントと顔の前では両手を合わせて手を叩くシーンであるがこの意味は伊達と北条が連合を組んで佐竹を牽制する意味合いがあったと解釈できる。
 
 政宗は人生最大のピンチとも言えるこの勝ち目のない戦を家臣と策略を駆使することで勝てる戦にもっていったのではないだろうか?人取橋の戦いは政宗の家臣団の有能ぶり(片倉小十郎の抜群の智将ぶり、伊達成実の猛将ぶり、鬼庭左月の忠臣ぶり)を存分に発揮した戦でもあったのでないだろうか。

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