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  在りし日の親父の面影を偲んで
昨日7月27日(土)のことだった。私はちょうど50年前に亡くなった親父を偲び早朝の電車で郷里石巻に向かった。JR仙石線は相変わらず全線開通しておらず、途中の松島海岸~矢本の間はJRバスでの乗り換え運行になる。(松島海岸駅にて)
石巻に着いた。この日はこれまでのルートとはまったく異なるルートで自分の菩提寺に向かってみた。その主旨は親父が生前学生だったころ、どんな道を歩いたのかを実感してみたかったからである。私は日和山と言われるこの辺で最も小高い丘を登ってみた。右側の肌色の建物が現石巻市役所(旧ビブレ)である。
 
上空はやはり梅雨空で今にも降り出しそうな雨雲に覆われ、しかもやや蒸し暑い。

日和山は別名鰐山(わにやま)とも言われた。鰐山は昔からの由緒のある名前である。
ここはちょっとした緑地帯であるが生前の親父もこんなところで道草を食ったのでないだろうか?
そう思うと何か熱いものがこみ上げてくる。

私は意を決し、とある路地裏に入ってみた。言うまでもなくこのような小路の存在はこの道がほぼ昔から存在することを意味しており、或いは親父が歩いたのではないかとの期待が私の脳裏をよぎった。そしてこの先の高校のグランドの脇を通ったときに練習中の野球部の選手から「おはようございます。」と挨拶された。私は朝から清々しい気持ちになり、天国の親父への思いと高校生のこの爽やかな態度を重ねた

私の歩いたルートと上の写真を撮影した位置を航空写真で確認して頂きたい。

間もなく丘を下って門野脇地区に抜けた。ここから先は震災以前に住宅が密集していたのだが今はその面影さえない。津波はこの家屋の手前まで来て多くのものを奪った。殺伐としたこの有様を見て私は寂寥感を感じざるを得なかった。
墓参りを終えた後、北上川河口に出てみて驚いた。向う岸の湊地区にあった瓦礫の山がきれいに片付いていたのだ。また堤防のかさ上げ工事が始まったようで既にシートパイルが打ち込まれていた。私は震災復興が目に見えて進んできたことに少しほっとした気分になった。

いつものように実家のあったほうに向かって歩いた。ここは叔父がよく生前に法事で利用していた割烹だが、震災の津波の被害を受けて2年以上の休業を経てようやく再開したようである。郷里の由緒ある割烹が復活したのは非常に感慨深いものであり、また震災復興がようやく形になってきたのを肌で感じた時でもあった。

そろそろ実家跡に近づいた。今こうして見るとこの通りを昔北上川に繋がる堀が通っていたのは信じがたいことだが、文献を調べるとこの堀が江戸時代に仙台藩の米を水運で江戸に出荷して繁栄の礎を築いた石巻の成長と深く関わるものであることが理解できる。
この通りは今こそ千石町と言われるが、私が幼い時分は横町と呼ばれていた。
私はこの石碑に向かって50年前の親父を思い、黙祷を捧げた。

親父への追悼を終え、私は石巻日日新聞の運営する石巻NEWSE'E(絆の駅)を訪れた。

これは震災の翌日に書かれた同社の壁新聞である。壊滅的な被害を受けたのにも関わらずに手書きで力強く書かれたこの新聞に真のジャーナリズムのありかたを感じ、大変感動した。

真剣な表情で壁新聞を書かれた社員のかたには頭が下がる思いであった。

これが石巻に、否仙台藩に繁栄をもたらした千石船である。文献によると一枚帆の帆船だけに逆風が吹くと後戻りもあったようで海難事故と紙一重の危険な航行であったとのことである。
館内に展示された写真、これは昭和初期のころだろうか?この時代の石巻は港町の繁栄を謳歌していたように感じた。また過去に本ブログで取り上げた徳田秋声の小説「縮図」の舞台にもなった花街の存在を如実に語るものである。

親父の供養と郷里への回想をした後は腹ごしらえである。石巻は漁業で栄えた町である。
私はそれを偲び海鮮グルメを求めこの店に入った。

缶ビールととみに久しぶりの毛ガニを味わった。鮮度も最高であった。

この後、最後の閉めとして以前も訪れた「まきいし」に行った。この辺りは昔花街と言われた辺りである。巻石(まきいし)は石巻の地名の謂れとなったもので、巻人にはことの他強い響きのある言葉である。

あさりとホタテの海鮮と枝豆、筍などの穀物のバランスの妙が素晴らしかった。

私は没五十年の親父の供養を果たし、また昨今の郷里の強い生命力を肌で感じ、ようやく梅雨の晴れ間の見えてきた石巻を後にした。
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