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  宿敵相馬との戦いに臨む伊達政宗の初陣
 本ブログでは伊達政宗の研究と題して今まで政宗に関することをいろいろと取り上げてきた。しかし彼の研究をするにあたっては戦ってきた数々の戦を除いては成り立たない。政宗が出現するまでの伊達家は現山形県米沢市に居を構える一戦国武将に過ぎず、それほど目だった存在の大名ではなかった。それが彼の出現でまさに破竹の勢いで領土を拡大し始めたのである。
 
 その背景には戦いに明け暮れたころの若かりし政宗の存在が不可欠である。本ブログでは彼の初陣でもあった相馬との戦いを皮切りに、数回に分けて彼の戦った数々の激戦を詳しく紹介していく方針である。
 
※伊達と相馬の家紋

これは1580年台始めのころの奥州南部の勢力図である。ご覧の通り、現福島県には様々な大名豪族が幅を利かせており、まさに戦国の世の縮図のような様相を呈していた。この中で抜きん出るのは果たしてどの大名なのか?この後、葦名と伊達の対決の構図が浮かんでくるものの、この時点ではまだわからない。

時は1581年、米沢に居を構える伊達家は徐々に力を蓄え、過去に相馬に奪われた伊具、宇田の奪還に乗り出してきた。往時の両者の居城をご覧頂きたい。この時点では亘理と角田は伊達、それ以外は相馬の所領である。

現在の航空写真と見比べて頂きたい。ご覧のように丸森、小斉、金山の三地点は戦略的にも攻防の要衝であり両者にとって譲ることのできないポイントであった。

これは両軍の出陣した居城である。米沢:伊達、小高:相馬。
赤☆は両軍の砦のあった位置である。

これは伊達の居城があった米沢城跡の外堀である。ここは後に上杉領となったため、もちろん往時の伊達の居城は残っていない。

ここで東工大の平井研究室が製作した米沢城の想像図を紹介する。天守閣はなく平屋の屋敷が生活スペースを兼ねて広がっているといった印象である。政宗もきっとこのような屋敷で生を受けたことだろう。
 
        ※米沢城(館山城)
米沢市街地のほぼ中心に位置する。戦国時代後期には伊達氏の本拠地が置かれ、伊達政宗の出生した城でもある。米沢城は、上杉の城下町であるが伊達家8代・宗遠から17代・政宗までの212年間は 伊達家が米沢を支配していた。伊達政宗、幼名梵天丸(ぼんてんまる)は永禄10年(1567年) 8月3日に父輝宗の嫡男として米沢城に生まれた。母は最上義光の妹の義姫(よしひめ)。政宗は、天正5年(1577年)11月15日に米沢城で元服し『藤次郎政宗』(とうじろう)と名前を変えた。

今回は1987年にNHKで放映された「独眼流政宗」DVDから画像を引用しこの戦いを振り返ってみることにする。

この戦いは非常に資料が少なく原作者の山岡荘八も執筆に苦労したのではないだろうか?

藤次郎政宗に嶋英二、そして正室の愛姫には後藤久美子という配役であった。

伊達輝宗は政宗の父に当たる人物で配役は北大路欣也である。

元服し藤次郎政宗(後の伊達政宗)は数え年15歳の1581年、父輝宗に伴って相馬の敵陣へと向かった。出陣式で息上がる輝宗と政宗(右)。

ここで伊達家の家系図をご覧頂きたい。相馬との領土争いは政宗の祖祖父の代から始まる。

馬子に馬を引かれ初戦に向かう若き政宗。時代検証も大したものである。

今年の三月、私はこの地を訪れている。位置的には例の三角地帯のほぼ真ん中であるが、ほぼこの辺りといった意味合いが強いのではないだろうか?

これは角田城であろうか?映像への説明はないが伊達の本陣のように見える。この時の伊達軍は友軍と併せて1万2千という軍勢であった。しかしこの戦いは一筋縄でいかなかった。勇猛果敢な相馬の軍勢を相手に伊達がこの地を奪還するのにはこの後数年を要したのである。

この時、藤十郎政宗は失態を演じてしまう。血気に逸って自陣を離れ、敵に討たれかねない状況に陥ってしまったのである。

※大将が首を取られては戦は負けじゃ、主君は生き抜き、家臣は主君のために命を捧げ忠義を尽くす。それが戦じゃと父に諭される藤次郎。

           コメント
 時に弱冠15歳の政宗、後に多くの歴戦を勝ち抜く勇猛な武将に成長する政宗だが、初陣には若さゆえの気の逸りが感じられる。それでも父輝宗は伊達の家督を継ぐに相応しい資質を見抜き、たくましさを感じたことだろう。ここに初陣に臨んだ政宗を評した相馬の言葉を紹介する。「伊達の小冠者侮りがたし。」この時、小冠者と言われた彼はこの三年後に家督を継ぐことになる。この時に輝宗の説いた主君と家臣の帝王学は後の大きな成長に繋がったのではないだろうか。
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