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    智将としての伊達政宗
 伊達政宗が徳川家康から百万石のお墨付きを反故(ほご:約束をキャンセルされること)にされたのは有名だが、なぜ政宗は恩賞であった領地を与えられなかったのか?「百万石のお墨付き」がどんな経緯で反故にされたのか、きょうはこれについて述べたい。
 また約束を果たされなかった彼がその後どうやって領国を立て直して今日の宮城県の基盤を築いたのかをNHKTVその時歴史が動いた「伊達政宗100万石への夢」の番組を基にお伝えしてゆきたい。
 
 その前に関ヶ原の戦い以前における伊達政宗の領地の変遷をご覧頂きたい。1590年ころ、政宗の東北南部併合、領地獲得はご覧の通りで、この時の石高は114万石(一説に150万石とも)に達した。



この時弱冠22歳の政宗は怖いもの知らず、なんと臣下に関東までもたやすく手に入れてみせると豪語する。(叔父の最上義光への手紙)



しかしここに豊臣秀吉が立ちはだかることになる。この時秀吉に従わなかったのは北条氏直と伊達政宗のみであった。



ここで政宗は戦わずして小田原攻めにおける秀吉の圧倒的な兵力を目の当たりにする。政宗はここで身の上を悟り、秀吉の臣下に下ることを決断する。秀吉によってあてがわれた新しい土地は今のほぼ宮城県に当たる部分で、荒れた土地の広がる58万石と従前の半分になった。



この後、政宗が新たな土地で金や鉄を得て次第に経済力、軍事力を取り戻した話は同番組の「伊達政宗ヨーロッパにかけた夢」で以前放映されたが、今回の番組ではまったく別な角度から独眼竜政宗の采配を分析する。

秀吉が亡くなった後の各大名の混沌とした力関係、その中で徳川家康が幅を利かせ始めたのである。ここで関ヶ原決戦の前の1600年6月から9月にかけての各大名の動向をご覧頂きたい。家康は上洛に応じない上杉景勝に戦線を布告して兵を出す。この時上杉景勝は石田三成と結んでいたとも言われる。



家康が景勝領に攻め込もうとしたその時、石田三成が尾張に攻め込む。



家康はこの時引き返そうとするが景勝に背後を突かれる恐れがあったため、これを食い止めるのに政宗に景勝を攻めるよう依頼した。



 この時結んだ約束が百万石(政宗に褒美として南東北の七つの土地を与えようというもの)のお墨付きである。



政宗はもしこの領地を与えられると今まで所有していた土地と合わせて百万石の所領を手にすることになる。政宗は家康の指示に従って景勝を攻めたが、一方で別な動きも行った。この隙に乗じて北側の隣国で起きた南部の一揆に兵を出し加勢したのである。政宗は関ヶ原の戦いのどさくさに紛れて、あわよくば南部も手に入れようと考えたのである。
 
 ここでゲストの長部日出雄氏は「戦国大名が格上の武将の下に入る時、まったく相手の言いなりでは潰されてしまう。この男は何をするかわからないという脅威を与えるのも大切。」と述べる。
 
 長部日出雄


※長部日出雄 1934(昭和9)年生まれ、青森県弘前市出身。新聞社勤務を経て、TV番組の構成、ルポルタージュ、映画評論の執筆等に携わる。1973年『津軽世去れ節』『津軽じょんから節』で直木賞、1980年『鬼が来た 棟方志功伝』で芸術選奨、1987年『見知らぬ戦場』で新田次郎文学賞を受賞。おもな著書に『密使 支倉常長』、太宰治を描いた『辻音楽師の唄』『桜桃とキリスト』、『反時代的教養主義のすすめ』などがある。
 
政宗はこの時、まだまだ戦国の世が続く。家康に力のあるところを見せたい。少しでも自国の領土を増やしたいと考えたようである。しかしそんな政宗の意に反し天下分け目の戦いは一日で決着がつく。そして時代は徳川幕府の時代になる。
 
この後、政宗は約束の領土を家康に要求するが家康はこの約束を反故にしてしまう。長部日出雄氏はこれについて「実は家康は最初から政宗に土地を与えたくなかった。だから与えない口実を探していた。政宗のとったこの行動はその矢先だっただけに絶好の口実になった。」と語る。



約束を反古にされ百万石を逸した政宗、普通ならここであきらめるのかもしれないが彼の場合は違っていた。彼はこの時62万石だった石高を戦略的な方法で100万石にするのでなく、水田開発による米作りで実現しようと考えたのである。
 
この川を見て頂きたい。宮城県を代表する大河北上川である。政宗はこの川に前代未聞の大規模な改修工事を施すことになる。



現登米市付近を流れる川は最初二本だったが工事の後は改修工事の後、Yの字となって一本になったのである。



川がなくなった地域は新たに肥沃な水田として生まれ変わった。



現在の航空写真を見て頂きたい。登米市の南部にはこのような水田地帯が広がっている。



この後大雨の後幾たびの水害に悩ませられながら、政宗は遠方より土木技術者であった川村孫兵衛重吉を迎い入れるなどして治水を行い、多くの困難を乗り終えこの地区を全国有数の米どころに仕立てあげる。そしてついにその時を迎える1620年3月、石巻港より五百石の米が江戸に向けて出荷された。(NHK放映のこの画面は石巻市住吉町の河岸を想定したものと推定)



仙台米の出荷。たった五百石だったがこれは仙台藩にとって大きな第一歩であった。


 
以後仙台藩の米は江戸に入ってくる米の三分の二(一説に三分の一とも)を占めるまでになる。政宗の死後80年余を経た1720年ころ仙台藩の石高は実質100万石を越えた政宗の願いがついにかなえられたと同時に水運という日本における新たな米流通ルートをもたらした一大革命であった。


 
                著者感想
 
 遅れてきた戦国武将と言われる伊達政宗は生涯に渡って天下取りの野心を持ち続けたと言われるが、彼は様々な方策をもって成し遂げようとしたしたのではないだろうか。死を賭けた二人の天下人との駆け引き、欧州との貿易の独占、自領の石高の増強…、彼は戦の達人でありながら智将でもあった。
 
 そんな彼も歳を重ねるとともに丸みを帯びてきた感がある。軍事力でダメなら経済力で…これが彼の柔軟性であり、したたかと言われる所以でなかろうか?彼は運がなかったとも言われるが未だに伊達家は滅びることなく現在まで存続している。彼の死後370余年を経ても我が宮城県では彼の多くの足跡を見ることができる。
 
     ※仙台城跡から百万都市となった仙台を見守る伊達政宗騎馬像

彼こそは郷里の英雄であり、文武に勝れた名将として誇れる存在である。これは単なる地元びいきではない。私は仮に宮城県人でなくても彼の生きざまに惚れ込み、彼を心から尊敬したことだろう。
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