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本日は最近読んだ織田久著『江戸の極楽とんぼ』についての感想などについて語りたい。この本は幕末の浄瑠璃芸人の富本繁太夫の東北漫遊記『筆満可勢』について書かれたものである。繁太夫は江戸の深川に住んでいた芸人で生年も本名も不詳である。江戸浄瑠璃の一派で富本節の芸人ゆえ、富本繁太夫を名乗ったようである。三味線引きの弥惣次、内弟子の松の二人を連れての男三人旅であった。

著者の織田久氏は繁太夫の実家は小間物問屋(日用雑貨問屋)を営んでおり、その跡継ぎである道楽息子が繁太夫であったと推測しているが、出鱈目で行き当たりばったりの素行がそのように思わせたものと考えられる。例えば繁太夫は旅先で偽の紹介状を捏造したり、大層な名の人物を詐称したりしている点である。彼は多くの芸人の例に漏れず遊び人でもあった。今回は浦賀出航前の文政11年(1828年)の夏から、三人の足取りを箇条書きで列記したい。

➊ 文政11年(1828年)6月12日(新暦の7月27日、又は28日)繁太夫ら三人は江戸の深川仲町から旭町へと急いだ。繁太夫は鎌倉まで行き、富田屋という商家に貸した20両の金を取り立てる魂胆だった。
神奈川を経て鎌倉へは同日の夕刻頃についた。途中の神奈川はひどく暑かったという。富田屋の主人に金を返すよう催促したが、一銭たりとも返してもらえなかった。
宿に宿泊し、翌朝再び掛け合ったが一向に埒が明かなかった。仕方がないので浦賀に向かった。(繁太夫は弥惣次の持ち金を期待したようだ)
午後二時頃西浦賀の宿屋・小泉屋弥兵衛方に着き、座敷(浄瑠璃)を担保に宿泊を申し出た。運悪く弔事が重なり、浄瑠璃がお預けになる。この時は借金が嵩んでいた。
その後、仙台に向かう船が近々出港するという話を耳にして、繁太夫はこの船に乗って仙台に向かう気になった。
船賃はなかったが贔屓どころの組頭二人が船頭に話をつけ、何とか三人が乗船する運びとなった。
更にこの後、仙台にコネのない繁太夫に、或る女郎屋の主人から「仙台領石巻の山道というところに、深川の伊勢ノ海(相撲の親方)の弟子(元相撲取り)の柏木徳左衛門という者が居るが、面倒見の良い人物ゆえ、伊勢ノ海の添え状(紹介状)を持参すれば断らないだろう」と言われた。(伊勢ノ海の耳に入ってないこと故、今で言えば私文書偽造)
➑ 文政11年(1828年)6月30日(新暦で言えば8月15日頃)に浦賀を出港。船は1500石の新造船で、三人は大船に乗ったつもりだったことだろう。
沖合いの津の崎というところで南風を待ったが、船頭が異変を感じて再び浦賀に引き返す。(記録によると、この時大規模な台風が来たらしい)
浦賀で五日間足止めを食らう。旧暦7月6日頃再度出港。
旧暦7月10日、福島の相馬沖を過ぎてからお礼の意味で浄瑠璃を語ることにした。演目は「鳴神」である。その夜、猛烈な暴風雨に見舞われ死を覚悟し念仏を唱える。
旧暦7月11日、船頭が櫓から「富士山が見えるぞ」と語る。
旧暦7月12日、金華山(牡鹿半島先端の島)が見える。夕刻に石巻に到着したが港の入り口を示す標識が壊れていたため着岸できず、伝馬船に乗り換えて、近くの長浜(現石巻市魚市場の辺りと思われる)に上陸した。(上陸は7月12日の夜か、或いは翌13日か?)

繁太夫はその時の長浜の様子を次のように書いている。「ここは長浜といって、一面に小松が生え、向こうに松並木があり、景色の良い浜辺である。素足で(中略)上陸し、(中略)まずは無事に到達したので、三人ともほっと息をついて悦んだ。(繁太夫は三味線引きと弟子を連れての三人旅だったようである)ここは仙台と金華山を結んだ金華山街道である。そこから少しずつ石巻に赴く。

道端に田や家があり、細長い茄子がある。江戸などにもこのような長い茄子はあるが、こんなに細く長い茄子は珍しい。ほどなく石巻に来て、舟の親方の利蔵宅に着く。この時期、ここでは「わかなご(ブリの幼魚?)」という魚がたくさん獲れる。一匹三文ぐらいである。まずは風呂に行く。湯銭は一人あたり十文で江戸と変わらない。(中略)

言葉は一向に理解できない。察するところ、こちらにとっても分からないのだから、こちらの話も(先方には)分からないのだと思う。我々陸上を旅してきたのならこの国の言葉も聞き馴れただろうが、相州浦賀海上を来て、この国の言葉を初めて聞いたので、どこに行っても(言葉が)皆目分からないのである。

その後口達者な彼は江戸相撲の伊勢ノ海親方の添え状があるなどと偽って地元の顔役の利蔵に掛け合い、柏木徳左衛門(元伊勢ノ海部屋の力士で女郎部屋の親方)の依頼で浄瑠璃でひと稼ぎしたようだ。石巻での演目は「水仙夕霧」、「相撲」、「阿波の鳴門」であった。評判はすこぶる良く、土地の旦那衆からは金子の他、御礼として海産物をもらったり、一座の訪問を請う話が持ち上がったという。石巻にはたったの8日間の滞在だったが、この時の稼ぎは三人で六両三文と百二十文(江戸の一人前の大工の給金換算で行くと今の金で140万~150万、一日平均で18万ほど)であった。

旧暦旧暦7月21日、石巻を出発して陸路を北(盛岡方面)に向かう。次の宿泊はすぐ近くの涌谷であった。

横町挨拶
こうして三人の流浪の旅は天保6年(1835年)まで7年ほど続きました。今回は石巻以降の足取りを割愛しますが、石巻での三人の行動で謎なのは、柏木徳左衛門なる人物の住居のあった山道(高台)という地名が一体何処なのか?全く見当がつかないことです。この場所がわかると、文中に「浄瑠璃の行われた場所は二三丁脇の広い空き家」とあるので、興行が行われた場所の解明の手掛かりになりそうです。

或いは繁太夫は日和山や羽黒山辺りの只の小高いところを山道と言ったのかも知れません。それはさておき自分の父方高祖母の生まれた年(1828年)、石巻にこのような芸人が来ていたことがわかっただけでも感動に価することでした。

富本繁太夫が筆万可勢で書いた往時のウニ漁法に関する図解(彼には意外と学者肌のところがあったのかも知れない…)

このような日記を書き、しっかりとした字を書けたのですから、私は彼を只の芸人とは思っていません。学者や武士のようなポリシーはございませんが、図解入りでこのような解説書まがいのことまで書いているのは、彼に或る程度の学識(読み書きなどの基礎的なこと以上のものについて、いろいろと学んだ可能性が強い)があった所以と受け止めております。但し書いている内容があまりにも俗っぽいので学者受けしなかったようです。(ここで言う扱え難い内容は読者様各位の想像にお任せします)

※現存する『筆満可勢』原本(東北大学附属図書館貯蔵)

そんな彼を見て思うのは
言うは易し行う、行うは難し(放浪気を批判するのは簡単だが、根気よく継続したのは評価できる)
一芸は身を助ける(芸以外に取り得のない繁太夫は己が食うにはこれしかないという開き直りがあった)
ということです。

実は彼はこの後、南部の盛岡に行き、座が大当たりして18日間で8,331人という客の入りを見たのです。この数字が本当だとすると、往時の盛岡の人口の約半分が芝居を見た(多い日には千人を越す客が訪れた)ことになります。これには彼の才能を感ぜずにはいられません。私は「筆満可勢」に当時の風俗を垣間見るという意味で興味深いものを感じました。機会がありましたら、東北各地での彼らの足取りを読みたいと思います。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

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