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NHKあの人に会いたい「志賀直哉」編
きょうはユーチューブで新たな志賀直哉の動画を発見したので、皆さんに紹介したい。
始めに、3分10秒以降は今年の元日に私のブログにアップした動画と重複することをお断りする。志賀直哉の魅力とはいったい何なのか?きょうはこの動画をご覧頂きながらその理由に迫ってみたい。

神様にあいたい
 40秒までは昭和35年に直哉が76歳の時にTV出演したもので、インタビュアーは河盛好三氏である。彼はここで「昔から秩序だったものを考えるのは得手でない。但し断片に書いておくのは無意味でないと考える。自分はそういう仕事でもして新たな活路を見出したい」と答えている。
 
 今、このインタビューの内容をよく考えると彼の作品に結びつく傾向が見えてくる。実は彼が生涯を通して書いた長編小説は暗夜行路一作のみで後は中編か短編である。そしてそのほとんどがノンフィクションである。これらを考察すると「小説の神様」と言われた彼は本質的には「暗夜行路」を含め「短編ノンフィクション小説の神様」なのである。そういう意味でこのインタビューは短い言葉で彼の作風や傾向を顕著に表した内容と解釈していいのではないだろうか?ところでここで直哉にインタビューしている河盛好蔵氏とはどんな人物なのだろう?
                   
                  河盛好蔵かわもりよしぞう(1902~2000)

 河盛好蔵:大阪府堺市生れ。1928(昭和3)年から二年間フランスに留学、主にモラリスト文学を研究。帰国後、長らく東京教育大、共立女子大等で教鞭をとる。モロワをはじめとする多数の訳業のほか、明朗・快活な人生論、女性論で人気を博した。代表作には『フランス文壇史』(1961年刊、読売文学賞)、『パリの憂愁』(1978年刊、大佛次郎賞)等。1988年、文化勲章受章。
 
   次に1分19秒から登場するのは直哉の親友、武者小路実篤である。
               武者小路実篤(1885~1975)

 武者小路実篤:東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に、藤原北家の支流・閑院流の末裔で江戸時代以来の公卿の家系である武者小路家に武者小路実世子爵の第8子として生まれる。
 
 学習院初等科、同中等学科、同高等学科を経て、1906年(明治39年)に東京帝国大学哲学科社会学専修に入学。1907年(明治40年)、学習院の時代から同級生だった志賀直哉や木下利玄らと「一四日会」を組織する。同年、東大を中退。1908年(明治41年)、回覧雑誌『望野』を創刊。1910年(明治43年)には志賀直哉、有島武郎、有島生馬らと文学雑誌『白樺』を創刊
 
 彼らはこれに因んで白樺派と呼ばれた。1916年(大正5年)には、柳宗悦や志賀直哉が移り住んでいた現在の千葉県我孫子市に移住した。この後、理想的な調和社会、階級闘争の無い世界という理想郷の実現を目指して、1918年(大正7年)に宮崎県児湯郡木城村に「新しき村」を建設。
 
 1936年、ヨーロッパ旅行中に体験した黄色人種としての屈辱によって、実篤は戦争支持者となってゆく。1941年の太平洋戦争開戦後、実篤はトルストイの思想に対する共感から発する個人主義や反戦思想をかなぐり捨て、日露戦争の時期とは態度を180度変えて戦争賛成の立場に転向し、戦争協力を行った。
 
 1946年には貴族院議員に勅選されるが、4ヶ月後には太平洋戦争中の戦争協力が原因で公職追放された。1948年(昭和23年)には主幹として『心』を創刊し死去する直前まで関った。1951年(昭和26年)には文化勲章を受章。晩年には盛んに野菜の絵に「仲良きことは美しき哉」「君は君  我は我なり  されど仲良き」などの文を添えた色紙を揮毫したことでも有名となる。
 
              横町コメント
 昭和30年放映のNHK「芸術ともやま話」に登場する直哉は無二の親友である実篤との出会いについてこう語っている。「二人の出会いは学習院中等科時代、直哉が19歳、実篤が17歳の時、直哉が落第したきっかけで同級になった。この時、下の級の奴らと武者が喧嘩しようとしたのがきっかけで急に親しくなった。」
 
 ここで注目して頂きたいのは二人のお互いの名前の呼び方である。二年年上の直哉が実篤のことを「武者」というのは自然だが、二歳年下の実篤が直哉のことを「志賀」と呼んでいる。これは二人の堅い信頼関係に基づく呼び名と解釈していいのではないだろうか?直哉の書いた「大津順吉」には実篤が友人のモデルとして登場し、実篤の書いた「友情」には直哉が友人(新進の小説家)として登場している。
 
 彼らはお互いのことを親しみと尊敬を込めてこう呼んだのではないだろうか?二人の作品を読むと互いに「間違いのない男」として認識していたようである。二人は生涯を通しての親友を貫くことになる。
 
 また2分49秒からは昭和30年の「芸術よもやま話」での尾崎一雄のインタビューに応える直哉の会話が興味深い。直哉は最初「文章があまりにも細かいことまで目について細々書いてまとまらずに途中で駄目になってしまうことが多かった。」と述べているがこれに対して一番弟子の尾崎一雄は「端折り方の要領」を見出したのでは?と聞いている。そして彼はこの弟子の問いに対し、「或いはそうだろう。おそらくそうだろうね。」と答えている。
 
 この何気ない直哉の会話に注目して頂きたい。「或いはそうだろう。」と「おそらくそうだろうね。」との会話は人間の微妙な心理描写の変化をリアルタイムで視聴者に伝えているような感じがする。或いはとおそらくとでは明らかに相手に与えるニュアンスが違い、この技巧的な話術ははさすがに小説の神様と言われるだけあるという印象を受けた。
 
 尾崎一雄の言う「はしょりの美学」は志賀文学の大きな特徴と言っていいのではないだろうか?例えばここに丘が描かれた一枚の風景画があったとしよう。ここでその丘の向こうに何があるのかを想像させるのは画家の大きな手腕にかかっている。この真理を直哉はよくわきまえた上で彼は独特の飾りのない力強い文体を生みだしたのではないだろうか?
 
        ここで直哉の弟子であった尾崎一雄についてお伝えする。
 
                         尾崎 一雄(1899~1983)

 作家。神奈川県小田原市出身。志賀直哉に師事。神奈川県立小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)、早稲田高等学院を経て、早稲田大学文学部国文科卒業。短篇集『暢気眼鏡』で第5回芥川賞を受賞し、作家的地位を確立。1944年、病気のため郷里下曽我に疎開し、長い療養生活を経て、以後この地で作家活動を行う。
 
 代表作は、『暢気眼鏡』『虫のいろいろ』『すみっこ』『まぼろしの記』『虫も樹も』『あの日この日』など。最晩年に筑摩書房で『尾崎一雄全集』全15巻が刊行された。1964年日本芸術院会員、1978年、文化勲章受章、文化功労者。
 
                 まとめ
 ここで冒頭のテーマに戻ろう。もしあなたが志賀直哉の本質を探究するならば、彼が大変な社交家であり、多くの芸術家や学識者に関係する人物だったことを知り得るだろう。この動画に登場する彼の本質をよく見て頂きたい。彼の本当の魅力は作品を読んだだけでは十分にわからないのかも知らない。
 
 彼の真の魅力は自己を小説の中にさらけ出し、まっすぐな性格をもって多くの人々と交友し、豊かな人生を送った人柄にあるのではないだろうか。
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