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 志賀直哉大正14年発表「濠端の住まい」
 大正元年から三年にかけては志賀直哉にとっていろいろな出来事のあった年代だった。大正元年に麻布の家を出て尾道に一人住まいした直哉は夏目漱石から東京朝日新聞に連載する小説の執筆を依頼される。返事に詰まっていた直哉はいろいろと考えるうちにどうしてもペンが進まなくなり熟慮の末にこの申し出を断る。
 
 尾道では後に暗夜行路の前身である時任謙作の執筆にも取り組んだ彼だったが、この地では「清兵衛と瓢箪」の完成にとどまる。そして1年(実質的には5カ月)で尾道を後にすることになる。その後、独身時代最後の年である大正三年の初夏、彼が住まいを構えたのは島根県松江市であった。彼は最初は最初は末次本町の赤木館に泊まり、宍道湖畔東茶屋に泊ったが、最終的には内中原167番地に移った。
 
          ※このころの近況を伝える知人和辻哲郎へのはがき


             
※彼の住まいがあったとされる亀田橋のあたり



 ここは松江城の濠のそばの戸建ての貸家であった。ここで一番いい時期の季節を過ごした直哉は山陰松江の素晴らしい自然と生命力みなぎる「美しい夏」に接することになる。
※直哉が移り住んだところと作品の舞台となった島根県松江市の位置を地図で確認して頂きたい。

 

※直哉が貸家を借りたと思われる地点打ち内中原167番地(この建物は残念ながら既に取り壊されている)を航空写真でご覧頂きたい。赤×:借家位置、黄色線:亀田橋


      
  志賀直哉短編「濠端(ほりばた)の住まい」書き出し
 『ひと夏、山陰松江に暮らしたことがある。町はずれの濠に臨んだささやかな家で、独り住まいには申し分はなかった。庭から石段ですぐ濠になっている。対岸は城の裏の森で、大きな木が幹を傾け、水の上に低く枝を延ばしている。水は浅く、真菰が生え、寂びたぐあい、濠と言うより古い池の趣があった。鳰鳥(におどり)が始終、真菰の間を啼きながら往き来した。』



 この描写力に着目して頂きたい。今まで志賀直哉の作品を何点か紹介してきたが、暗夜行路に登場する尾道や大山にも見られるように彼の文学の特徴として一般に景色がいいとされる地での滞在を自らの作品に登場させ、その抜きんでた表現力による情景描写を行い、読者に臨場感を与えているのである。


        
志賀直哉短編「濠端(ほりばた)の住まい」粗筋
 
 私はある年の初夏の季節を松江の濠端の脇(松江市内中原町亀田橋のたもとで江戸時代の上・中級家臣の屋敷が残る一角)で暮らしたことがある。昼は毎日のように外出し、夜遅く帰り、明け方まで書き物をして暮らした。
 
 隣の夫婦は養鶏を営んでいた。私は毎日鶏の様子を愉快な気持ちで眺めていた。ある夜、隣の夫婦の鶏小屋が猫に襲われ、母鶏が雛をかばい喰われてしまった。次の夜、猫は罠に捕まる。夫婦は翌朝、罠の籠ごと濠に沈めて猫を退治するつもりであった。私は、夜中に箱の中で暴れ嘆願する猫の鳴き声を聞き、できれば助けてやりたいと考えるがその一方で、それが出来ない自分に気づく。
 
 然し、事実はそれに対し、私は何事も出来なかった。指一つ加えられない事のような気がするのだ。こう云う場合私はどうすればいいかを知らない。雛も可哀想だし母鶏も可哀そうだ。そしてそう云う不幸を作り出した猫もこう捕えられて見ると可哀そうでならなくなる。しかも隣の夫婦にすれば、この猫を生かして置けないのは余りに当然なことなので、私の猫に対する気持が実際、事に働きかけて行くべくは、其処に些の余地もないように思われた。
 
 私は黙ってそれを観ているより仕方がない。それを私は自分の無慈悲からとは考えなかった。若し無慈悲とすれば神の無慈悲がこう云うものであろうと思えた。神でもない人間--自由意志を持った人間が神のように無慈悲にそれを傍観していたという点で或いは非難されれば非難されるのだが、私としてはその成行きが不可抗な運命のように感ぜられ、一指を加える気もしなかった。
 
 この作品の描かれた背景を論ずることで忘れていけないのが直哉の友人、里見弴(さとみとん)の存在である。
                        ※里見弴(1888‐1983)



 里見弴:小説家。横浜生れ。本名山内英夫。有島武郎、生馬は実兄。東大英文科中退。1910年に武者小路実篤、志賀直哉らとともに白樺を創刊。1913年「君と私と」等を発表。大阪での芸者との恋愛、結婚を清新に描いた「晩い初恋」(1915)、「妻を買ふ経験」(1917)、志賀らとの青春の彷徨を描いた「善心悪心」(1916)によって文壇にデビューした。19年には吉井勇,久米正雄らと「人間」を創刊。長編小説にも手を染め、「今年竹」(1919‐26)、「多情仏心」(1922‐23)などを書いた。

 「濠端の住まい」には直接登場しないが直哉は松江での余暇の多くを里見と過ごしている。実はこの時の松江を小説に描写したのは直哉のみでなく友人の里見弴も小説「或る年の初夏に」に著していた。(写真参照)この中で直哉は佐竹という友人として登場している。この頃の二人は友人でもあり、ライバル関係でもあったようである。
 
 もし、読者諸兄が「濠端の住まい」を読まれる際はこの「或る年の初夏に」とも一緒に一読されることをお勧めする


 
ここに大正3年の7月6日に同じ松江市内の里見(下宿住まい)に宛てた直哉の手紙を紹介する。
 
             ※志賀直哉全集第12巻より抜粋
 
 昨日夕方から雨が上がったのでボートで出た。例の棒杭に繋いで泳いだ。力漕のように力泳をやったらすぐ疲れたのですぐ帰って来た。昨日は水が塩からかった。くらげがいた。しかし姥ヶ島から先に出ると真水だそうだ。
 
 今日は午前風があったが雨は降らなかった。新大橋の開通で隣のかみさん(小説に登場する大工の奥さんと思われる)も丸髷を結って出かけた。午後烈しい吹降になった。四時ころ洋服を着て散歩に出た。湯町まで歩いた。十五分ばかりして汽車が来てすぐ松江へ帰って来た。
 
 文中にも登場するように、ここで直哉は日中は里見とともに宍道湖でボートや水泳で遊び、夜になると「濠端の住まい」に戻り、深夜まで創作活動をする生活を行っている。もっとも富国強兵が叫ばれるこの時勢に財力に任せて、ろくに仕事もせず昼間から遊び呆けていたこの二人は警察から目をつけられ身辺調査を受ける羽目になる。
 
                   読後感想
 
 「城の崎にて」にはストーリーの中にイモリが登場するが、都市化がさほど進んでいないこの時代は日本各地でイモリやヤモリが普通に見られたのではないだろうか?作品の冒頭では彼が夜遅く帰ってきて虫やカエルやヤモリに占領された部屋をユーモラスに追い払うシーンも登場する。
 
 本作も「城の崎にて」と同様に日常において出くわした生き物の生と死を通し、生きるとはなにかを暗示している。この作品で彼の生き物を見る目は優しく慈愛に満ちているが、殺された鶏のこともけして目をそむけることなく淡々と描いているところが、如何にも彼らしく外連味がなく素晴らしい。作家にとってこういう貴重な体験は財産である。彼はこの松江を愛し、恵まれた環境に感謝しつつ、独身最後の夏を里美とともに謳歌したのではないだろうか?
 
 直哉はまたこうも語っている。「人と人と人との交渉で疲れ切った都会の生活から来ると、大変心が安まった。虫と鳥と魚と水と草と空と、それから最後に人間との交渉ある暮らしだった。」彼は人と動物との触れ合いを描き、動物の死を語ることで人間の運命における神の無慈悲を表現したかったのではないだろうか?彼の哲学とともに古き良き時代の山陰松江の風情を是非この名作とともに味わってみて頂きたい。
 
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