fc2ブログ
  石巻の発展の生き証人「中瀬」
 
 下の地図をご覧頂きたい。石巻に注ぐ旧北上川、その河口近くに中瀬(なかぜ)という中洲(川の堆積によってできた島)がある。石巻で育った私にとって、この島は幼い時に魚釣りをしたり、映画(当時は岡田座という劇場、映画館があった)を観たり、非常に思い入れのある島あり、この島抜きにして石巻の全体のイメージは成り立たないと言ってもいいほど大きな存在感を感ずる島である。また昔の岡田座は牡鹿半島に於ける娯楽と文化の殿堂という位置づけもあった。きょうは地図と写真を交えて江戸時代から現代に至るこの島の変遷をたどってみたい。

 まず現在の中瀬の上流部(船で言えばへさき)をご覧頂きたい。海抜がゼロに近く、何も無くなってただの荒れ地となっているが、昔の中瀬を知る石巻人には耐えられないほど痛々しいシーンである。(2013年3月22日撮影)

更地が多く見られる発展途上の石巻。(港側からの絵図)これは江戸時代中期と見られる中瀬である。(方角をわかりやすくするために日和山(標高約60メートルの河口南側の小高い丘)に△印をつけてみた。二つの橋がまだが架かってないことに注目。
※以下の資料は石巻日々新聞社石巻NESe'e展示より転載

これは1727年で同じころの絵である。(日和山からの絵図)帆船が目立つがこれは千石船と言われる米などの荷を運ぶ船である。この千石船は現千石町(旧横町)にその名前を残している。当時の伊達藩はこの千石船を江戸への往復につかわし、この通商で莫大な利益を上げていた。

上の写真と同じ日和山側からの絵図、橋が架かっていることから19世紀後半(明治時代前半)ころと見られる。家屋が密集の度を増して江戸時代より一層の発展を示している。またちょうど志賀直哉が生まれたころ(1883年)と思われる。(△:日和山)

 港側から撮影した昭和初期の写真である。(石巻日々新聞社石巻NESe'e展示より転載)橋を渡ったところは中瀬で黒っぽい大きな屋根が岡田座と見られる。また写真では確認できないがこの島には造船場も存在した。
 
 わたくしごとで恐縮であるが、私の親戚の酒店の屋根が写真下のやや中央から左にかけて写っている。この頃は活気あふれる湊町の風情を呈していたが、震災の津波でこの辺は信じられないほど何もなくなってしまった。大変残念なことである。

今度は少し上流側を見てみよう。黄色の矢印に注目して頂きたい。実は江戸時代にはなんと上流にも上中瀬なる中洲の島が存在したようだ。これは私自身初耳であり非常に驚いた!

今度は湊側からの絵図である。上中瀬にはなんと家屋らしいものが描かれており、これまたビックリである。人が住んでいたのだろうか?向こう岸に着眼して頂きたい。この多くの小舟や千石船の係留は一体なにを意味するのか?

 私は先週石巻新聞社でこの事実を知り、早速現地を訪れた。幸い付近の年輩のかた(昭和13年生まれ)にお話を伺うことができた。Aさんはこう語ってくれた。「確かに私が小さい頃にはあの対岸の辺りに川の堆積で出来たと思われる中洲があり、向こう岸まで泳いだ記憶があります。」また「当時は今と比べて寒かったので川に分厚い氷が張ったときは馬をひいて氷の上を渡ることが出来たようです。」とつけ加えてくれた。

私は岸辺のほうに目を向けた。上流から米を積んできた小船はこのそばの米蔵(現、石巻市立住吉小学校)に荷を入れるためにこの辺に係留されたはずである。また江戸に向かう千石船がこの蔵から荷を積んで江戸に向ったと言われる。今はコンクリートで護岸された岸辺だが、かつて賑わった水運事業の栄華が偲ばれ、ロマンを感じた。

 最後にこの絵を見て頂きたい。この絵は先日、不あがりさんよりご教授頂いた「グランド・ジャット島の日曜日の午後」、ジョルジュスーラ作(1884-1886)である。
この島は実はセーヌ川の中州に出来た島で、石巻の中瀬との共通点を感じる。
 
 130年前のフランスの紳士淑女の服装もさることながら、ヨットに興じたり、楽器を演奏したり、各人が思い思いにくつろぐ姿には自由主義の恩恵と豊かな文化、生活のゆとりさえ感ずる。

この絵にあやかり、震災で荒廃してしまった中瀬の復興を心から祈りたい
関連記事

トラックバック

トラックバック URL
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)