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   弱冠15歳の政宗、父に伴い金山城の宿敵相馬を攻める
 宮城県最南端の冒険シリーズは最終回(第5回)は本シリーズの焦点とも言える伊達、相馬の攻防の拠点ともなった金山城(宮城県伊具郡丸森町金山)跡について紹介する。※地図で金山城跡の位置を確認して頂きたい。黄色線が県境、凸:金山城跡

城は小高くなった丘の上(標高117メートル)にあるが、これは城の入口である。古い屋敷にも見えるが城との関わりは不明である。

入口部にはこのような立派な鳥瞰図が掲げられている。

バイクは舗装されているところに止めて、後は歩くことにする。

息を切らしながら登った。先に紹介した丸山城とは比べ物にならないくらい高く、勾配も険しい。ここは五号目くらい本丸にはまだまだである。
まだ八合目であるが土塁が見えてきた。この立て札がなければ土塁とは気づかないだろう。

東側の城壁である。文献を調べると1588年に補強工事をした時のものと推測される。ややはらんでいるのを見るとだいぶ老朽化してきているようである。

今度は南側から城壁を望んでみた。こちらは程度がいい。
この状態は往時とさほど変わってないのではないだろうか?
周囲の植生を観察すると丸森という土地柄、丸山城同様竹林が多いのに気づく。

途中で犬を連れた人とすれ違った以外は誰もいなかった、汗をかきながら本丸に到着。

本丸の跡はフラットでざっと三百坪はあろうか?
小さいながらそこそこの規模の城という感じがする。

          金山城説明(複数の文献を基に編集)
 
 金山城周辺一帯はもともと伊達氏の領土であったが伊達稙宗と晴宗の骨肉の争いにより相馬がたの手に渡ることになる。この城は標高117mの独立丘陵に築かれた平山城で、永禄年間(1558-70)に相馬家臣井戸川将監と藤橋胤泰によって築城されたと言われる。
 
 その後1576年(天正4年)以降は伊達氏と相馬氏の争奪戦が展開された。天正9年(1581年)には伊達政宗が父輝宗に率いられて初陣を飾り、同12年(1584年)には再び伊達氏の領有となった。
 
 金山城城主には政宗の家臣中島宗求が2千石で拝領した。天正16年(1588)には相馬氏に備えて新たに石垣や土塁を築き、堀切を穿つなど、大規模な改修が行われている。また、以降の伊達氏による相馬氏攻撃の際には、戦線を構成する重要な拠点ともなった。

 江戸時代は元和の一国一城令により金山要害と称し、引き続き中島氏が明治維新まで居住した。明治元年(1868年)戊辰戦争後に一度南部氏が白石藩に転封され、補修がされたが、後に幕末に勤皇派としていた旧城主の中島氏に払い下げられた。現在は、「お館山公園」となっており、本丸跡には石垣が残り、往時の面影を伝えている。

 これは相馬伝統の野馬追祭りのものであるが、野馬追にも見られる勇猛果敢な武士であった相馬の鍛え上げられた武術は脅威であり、かつこの急峻な地形を有する天然の要害はそう簡単に伊達の攻略を許すものではなかった。当時、精鋭揃いと言われたの伊達の軍勢をもってしても奪回までは三年の歳月を要している

 この時数え歳で15歳(満13歳)を迎えた政宗の初陣は宿敵相馬であった。天正9年、薫風なびく五月、政宗は五年にも渡る相馬との領土争いに父輝宗とともに出陣した
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       自作歴史エッセイ「戦国武将伊達政宗の初陣」
 
 「そちももう一人前の武将ぞ、伊達者の誇りにかけてもこの城を落とすのじゃ。…いいか、相馬の反撃に一瞬たりともひるむでないぞ!」竹林が少し拓けた山の麓に父輝宗の怒号が響き渡った。「オーー!」怒号と共に、相馬軍から一斉に矢が放たれる。初めて見る矢の雨に政宗は一瞬たじろいだもののすぐ我に返った。
 
 父と共に元々所領だったこの地を奪還する。そんな使命感が恐怖を上回っていたのだ。「武将は己の家の存続と名誉のために命をかけるものだ」…それをはよく理解していた。そして彼は馬上から敵に向って弓を引いた。次の瞬間、ひと際力強い矢が相馬の本陣の奥深い処に打ち込まれた。「あの若武者は誰だ?」相馬軍から一瞬どよめきが起こった。この時から彼は立派な伊達の副将として父の片腕となっていた。
 
 『(家督を継がせるなら)こいつしかいない…』。この時輝宗は政宗の武将としての資質を見抜いていた。この日は深追いはしなかったが立派な後継ぎが出来たことが輝宗に大きな満足感をもたらした。
………
 「皆の者、今宵は祝杯をあげようぞ!」帰路の途中、輝宗の弾んだ声が黄昏の野に響き渡った。「はっ」、連れの家臣が一斉に叫んだ。旧領土であったこの地の奪回を誓い、こうして父子は親愛の情と絆を深めていった。傍らで政宗の初陣をずっと見守ってきた片倉小十郎が言った。「若殿、きょうは上々の初陣で御座りまする。」彼は万が一相馬から矢が放たれた際には政宗の盾となって殉ずる覚悟であった。
 
 沈みゆく夕日が蔵王連峰の深い山並みを幾層にも渡って陰影をもたらし、春霞とも夕刻の薄暮ともつかぬ朧が伊達の兵どもを飲みこもうとしていた。この日は奇しくも上弦の月の晩であった。

そして3年後に金山城は落ちることになる。※本丸から南側(相馬側)を望む。

金山城から東側(相馬側)を望む。

北側(角田、仙台側)を望む。

あれから四百三十余年…、あの日の兵達の壮絶な争いをよそにこの碑は激戦となった東側の宇多を見ながら静かに立っていた。
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