fc2ブログ
 自分が生を受けた県の未踏の地を冒険する旅
 私には以前から気になることがあった。それは郷土の宮城県で一回も訪れてない場所があるということであった。そんな場所があるならば冒険者ならずとも行ってみたいと思うのが人情というものでないだろうか?
 
 きょうから数回に分けてその様子をブログに紹介したいと思う。数回と述べたのは①今回は史跡を4箇所訪ねた点。②全行程で数百枚に渡る写真撮影を行った点。以上の理由により今回のこの冒険が結果的にかなり中身の濃いものになったからである。
 
 昨日の土曜日、大動脈である国道4号線を通り、私がまず最初に訪れたのは県南の阿武隈川流域の場所である。ここは阿武隈大橋といって岩沼~亘理に至る拠点でY字状にR4とR6が交わる場所である。(阿武隈川河畔に出てから東側に向って撮影)
 撮影条件のことでバイクを進行方向と逆方向に止めて撮影したことをご容赦頂きたい。
この川が宮城県では北上川に次ぐ第二の大河、阿武隈川。煙突からモクモクと煙が出ているがここは岩沼の大昭和製紙である。

 それでは、昨日私がどこに行ったのかを地図でご説明しよう。赤が私が走ったルート、黄色が県境である。この下の場所の地名は丸森町、最南端がまるで盲腸のような形をしているのに注目して頂きたい。
 
 仮に宮城県の人で丸森町に訪れたことがある人でも、ほとんどが町場止まりで、この盲腸の形のところまで行った人はかなり少ないのではないだろうか?

1キロほど走って川べりから旧道に出た。するとご覧のような祠が私を出迎えてくれた。
今までの経験上、旧道は見どころも多く、思わずテンションもアップした場面であった。

祠から500メートル近く走ると昭和の古き良き時代の建物が目立ち始める。
この遠藤魚店もローカルでなかなかいい雰囲気があり、この地域に大きな存在感をもたらす建物であった。

今回紹介する場所を地図で説明しよう。△:祠のあった場所、□亘理郡亘理町JR逢隈駅、○:史跡「三十三間堂跡。

ここがJR常磐線逢隈駅である。この辺りは阿武隈山地の北端の部分でもある。
阿武隈山地のなだらかさがほど良く人に優しさを感じさせる。このなだらかさが起伏に富んだ野山、川を造形し、ローカルな人里、毛細血管のような小道、歴史と相まって大きな魅力を醸しだしている。
この感覚は失いつつある日本の原風景とも言え、私は国木田独歩の小説「武蔵野」の趣に近いものを感じた。

嬉しい誤算とはこのことを言うのだろう。踏切を越したところでこんな看板を見つけた!
三十三間堂とは一体何なのか?急きょ通過するだけの予定だった場所に立ち寄ってみることにする。

愛車を駆り、小高い丘に駆け上がってみるとこのような落葉樹の林が広がった。開発が入ってなさそうな木立、そして周りは墓地、私は直感的にここが史跡に近いことを感じた。

現在地:黄色、と逢隈駅:赤、と三十三間堂建物跡:オレンジ、の位置関係を地図でご覧頂きたい。これはこの看板が方向性を優先したためのことと思われるが、読者諸兄においては上が南になっているのを配慮しながらご覧頂きたい。

ここが地図で紹介した北側の建物跡地である。

ここが南側の建物跡地である。その向こうは住宅地となっている。

なんと三十三間堂とは平安時代の郡役所のことであった。読者諸兄もお察しの通り、東北地方での平安時代からの遺跡となると数も少なく非常に意味の深いものであり、珍しいものである。

今来た道を再び引き返した。林と住宅地との位置関係を確認して頂きたい。

これは国道6号線に再び向う途中で出くわした野焼きである。今どき野焼きとは珍しくもあり、思わず足を止めしばし見入ってしまった(笑)正面の白黒の衣装を着たかたは神主さんである。
作業している人に話しかけていたことから、私はおそらく近くの神社の神主さんでないかと推測した。

野焼きから500メートル、このような祠があった。先のことを申し上げるが今回の冒険では祠はいたるところにあった。

シェルパのタンクに貼った地図で現在地と目的地(丸森町筆甫(ひっぽ)を改めてご確認頂きたい。筆甫まではここからまだたっぷり40キロはある。しかもそのほとんどは開発とは程遠い田舎道である。

阿武隈山地の低い峠を越えていよいよ角田市に入った。この時点で気温は10度を越え、天気は上々、思わずテンションもあがる。

行く手には青空と蔵王連峰が待ちわびる。来てよかったと感じる瞬間である。

次回は角田~丸森の大正、昭和からさほど変わらぬ&ローカルムードあふれる風情をお伝えする。
お楽しみに!
関連記事

トラックバック

トラックバック URL
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)