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   志賀直哉石巻生家と東京麻布旧邸
 
 宮城県石巻市で生まれた志賀直哉は物心のつかない2歳までをここで過ごす。この後、彼は生涯で三度ほど石巻を訪れたが石巻の思い出に対してさほど多くを語っていない。このころの直哉のやんちゃぶりを示すエピソードとして、明治17年(直哉が1歳半を過ぎたころと推定)の直哉の実母銀が祖母留女にあてた手紙の一節を紹介する。(手紙は旧かなづかいなので本ブログが現代の言葉遣いに変更)
 
「直哉は日増しに知恵もつき、いろいろと覚えるようになってまいりました。(中略)河岸(石巻市に注ぐ旧北上川)にて遊び、連れて帰ろうとしましたが、どこまでも行くと暴れるほどです。」
 
※1歳半ころからやんちゃ育ちで、非常に気が強そうな表情をした赤ん坊(1歳)のころの志賀直哉。
 志賀直哉の石巻生家(インターネットから引用)、この写真は1989年に撮影されたのもだが震災前に解体されてしまった。現在、数あるインターネットサイトでも志賀直哉の生家を掲載したのはこのサイトだけである。
 
それまで数説存在した直哉の生家がここに落ち着くまではかなりの期間がかかったとのことであった。もちろん本ブログとしても初公開である。
まったくの偶然だが私の生家とは300メートルと離れていない!
なんと、小学校1年~3年までは毎日この建物の前を通っていたことになる!
現住所:宮城県石巻市住吉町1丁目8番25号

これは東京に移り住んでから直哉が幼稚園時代に持たせられたという迷子札である。
幼年のころから非常に我がままで好奇心旺盛であったことから、この迷子札は彼にとって否、志賀家にとっては必需品であったのかも知れない。
※札には三河台町に写る前の東京の住所「内幸町壱丁目六番北云々」の刻印が施されている。

 志賀直哉は石巻の後、東京で少年期から青年期を過ごすことになるが、14歳から住んだとされる東京麻布三河台町(現港区六本木4-3-13 )の邸宅は昭和20年の東京空襲で全焼し、今は某大手企業の社員寮となっている。跡地にはこのような説明書きがあるのみで二本の欅の木を除いて往時を偲ぶものはなにもない。

※航空写真で志賀直温(直哉の父)邸跡地をご覧頂きたい。皇居とは目と鼻の先である。

 この邸宅についてはいくらインターネットを調べてもこの説明書きと社員寮の写真くらいしか出てこないため、私は図書館で志賀直哉にちなんだ参考文献を当たってみることにした。今回、参考または写真を転載したのは愛弟子でもある作家阿川弘之著新潮文庫発行の「志賀直哉」上刊(左)と小学館発行「日本の作家志賀直哉」(右)である。

 志賀直哉の父直温は明治26年の総武鉄道創立に関与し共同経営者だった相馬藩士青田綱三を社長に立て、自らは会計(後日専務取締役に就任)となって経営は順調に推移し成功を納めた。これと先代直道(直哉の祖父)から受け継いだ資産を背景に多くの企業を複合的に経営するなどして実業家の道を順調に歩み、東京の一等地である麻布三河台町(現六本木)に敷地1682坪、建て坪300坪の大邸宅を築くに至った。
 
 この屋敷の周囲には大鳥圭介邸、陸軍大将、陸軍中将の屋敷、英国人建築家の住まい、駐日フランス大使館の住まい等のそうそうたる大きな屋敷が並んでいたという。また門はわざわざ谷中の寺の欅造りの古い山門から移設、土蔵が千葉行徳の質屋の蔵だった3階建て、庭に築山、東屋、牡丹の花壇、薔薇の花壇、北東の竹の植え込み奥には石の鳥居と一対の石狐、水屋、参道を備えた子育て稲荷の社(やしろ)があったという大変なものだった。(阿川弘之著「志賀直哉上刊」より。)
 
 この写真は直哉が家を出た大正5、6年ころに撮影されたものであるが、現在インターネットでも全くヒットしないことや戦災での焼失を考えるとスクープ画像と言えるのかも知れない。
 
※麻布三河台町(現六本木)旧志賀家邸宅正門(小学館発行「日本の作家志賀直哉」より転載

この邸宅には家族の他に多くの使用人も同居し、書生らも出入りしており彼の作品にも登場している。彼は大都会に居ながら雑木林に囲まれたこの屋敷で学業にはあまり打ち込まず(彼は学習院時代に落第を二回経験している)、義太夫見物に頻繁に通い、一方で内村鑑三に影響を受け、その傍らで創作に励んだと思われる。
 
 彼は大都会東京のど真ん中に居ながらも雑木林に囲まれたこの広大な屋敷で作家としての初期の作品を生み出している。処女作でもある「或る朝」、「網走まで」「正義派」「大津順吉」などである。この恵まれた環境が生み出す余裕が彼の作品の中に現れているのではないだろうか?
 
 彼はこの後、自我に目覚め家督でありながら実家との縁を切り創作のための放浪の旅に出、生涯23回にも及ぶ引っ越しをすることになる。
 
※学習院中等科時代の直哉(彼は文豪には珍しく器械体操やボートを得意としており、筋骨隆々とした肉体の持ち主でもあった。)。また69歳の時に執筆した「自転車」によると、このころ(13歳~19歳くらいまで)の直哉は当時はまだ高級品だった自転車(外国製のみしかなかった)に夢中になっており、毎日のように乗っていた。

女中との結婚問題、足尾銅山鉱毒事件視察で父と不仲となり麻布を出て尾道に移り住んだころの直哉。(29歳ころ)このころはの彼は既に作家として生計を立てることを決めていた。

直哉直筆の著(彼は文豪である傍ら書道の才能にも恵まれていたようである。)

彼は絵画の才能にも恵まれていた。「つつじ」56歳の時の作品。

 昭和46年10月21日、午前11時58分、彼は肺炎と全身衰弱のため88歳の生涯をとじた。直哉の最後は苦しみもなく眠るような最後であったと終焉に立ち会った愛弟子の阿川弘之は後日語っている。そして彼の葬儀は遺言に基づき、一切飾りつけのない無宗教で行われた。(写真)
 
 また遺言には作家は作品が全てなので死んでからは記念館、文学碑などは作らず、追悼の会などもけしてしないように綴られていた。

 彼は無神論者であり、神社仏閣に行ってもけして参拝することはなかったという。彼の強い信念は宗教を必要としなかったのだろうか?88年の人生を自由に、豊かに生きながらも最後にこだわる…如何にも直哉らしい心意気ではないだろうか?ただしそんな彼も青山の実母の墓の前だけは特別で、終始なにか話しかけるような口調であったという。
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コメント

No title

志賀直哉について、前に書いたか?覚えてないので重複したらすみません。私が中学受験の頃のテスト問題に、志賀直哉の文章のが出てきました。
その後どうなるのか?その後が読みたくて本屋さんに行きましたが、なかなか見つかりませんでした。
うちの母には当時志賀直哉はあまり好きじゃないと言われたので、図書館で読んだりしましたが、そういう状況ではその後深く読む機会があまりなかったんです。ミックさんの記事を読むと、私が志賀直哉を好きだった理由が分かるんです。
無神論者。そうですね。私もそうです。

URL | プチポア ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

ナイスの押し方なれなくて。。失敗しました。ごめんなさい!!

URL | プチポア ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

志賀直哉さんの作品、彼の生き様などについてはミックさんの記事で
色々と参考になることが多く、彼の作品の背景や彼自身を
自分なりに解釈することで更に親しみを感じるような思いです。

彼の貴重な資料、ミックさんの向学心に頭が下ります。
彼は色々な才能を持っていた事も今回初めて知りました('∀`)
最後の葬儀も彼を慕う人達が彼の意思をついでくれたのですね。

URL | joeyrock ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

迷子札って初めて見ました。そんなのを付けていたのですね!
あの辺りは昔よく行きましたが、全く何も気が付きませんでした。

URL | 行雲流水 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

プチポアさん、志賀直哉にはなにか勢いというものを感じます。
これは方向性とパワーがともに正しく噛み合ったときに発せられる力のモーメントのようなもので、読者をわくわくさせるたぐいのものです。
人間から小動物、虫に目を向け、生と死に正面から目を向ける彼に真の強さを感じるのです。
今までは彼の作品を中心に紹介してきましたが、今回(前回も)の焦点は彼の人となりです。
なぜこのような文が描けるのか、自信が持てるのか、人生を迷わず堂々と生きる術を身を持って教えるのが彼の生き方ではないでしょうか?
志賀家のしきたりにも捉われない無神論者としての彼の誇りがこの葬儀にもあらわれていると思います。
ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

joeyrockさん、インターネットでの情報収集は限界がありますので、最近は文献を見るようにしています。この麻布の屋敷のこともそうでした。
この時代の作家の多くはハングリーでしたが、この屋敷を見た多くの文人や関係者は一様に驚いたといいます。
阿川弘之氏著のこの本を読み、今まで途切れた線だった彼の全容が徐々に繋がってきました。
哲学者ニーチェは人間は大別すると①愛されるタイプと②尊敬されるタイプの2タイプとなり、①のほうが概ね楽であると語っていますが、直哉は②でありながらも楽しく豊かに人生を歩んだ人物でないかと思います。

阿川氏は本人には言え得ないこと、弟子でなければ言えないことをかなり語っていますので、非常に興味深く読んでいます。
志賀直哉のことはもっともっと掘り下げて今後も本ブログで紹介してゆきたいと思います。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

行雲流水さん、彼のこうした足跡は実業家である父あってのものでしたが、実質的な人格形成には祖父母の存在が相当絡んでいるようです。
長兄のように早世させないように直哉は志賀家の家督として祖父母に大切に育てられました。
この札を持たせたのもおそらく祖父母だったのではないでしょうか?

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

こんにちは。

前にも書きましたが、本を読む機会がなく、ミックさんの投稿文を
読ませて頂き、内容も少しはわかり、とても感謝しております

それにしても、当時1歳の時の写真が有りとはびっくりです。
私の幼少の写真は皆無です。

ナイス!です。

URL | 好日写真 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

志賀直哉は、いろんな才能をもった人だったんですね。
そして、好奇心旺盛で我儘な少年。
六本木の大邸宅に住むような裕福な少年。
それなのに、父親と不仲になり、あちこち転々と移り
住むようになるんですね。
自由で、羨ましい人生です。

迷子札には、笑ってしまいましたが・・・。

URL | yoko ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

好日写真さん、写真から癒しを頂きこちらこそ感謝しています。
彼の1歳の写真、なにかその後の性格を思わせ、大変微笑ましく思えます。
手に負えないやんちゃぶりが多くの作品を生む大きな原動力になったのでしょうね。

ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

yokoさん、麻布(現六本木)の邸宅も石巻の生家もデータに乏しく情報収集に苦労しましたが、これで今までの途切れていた線がようやく一本の線に繋がった感じがしています。
彼の少年時代はほんとうにやんちゃそのものでした。
その自由気ままな行動は鉄砲玉でもあり、糸の切れた凧でもあり知らない土地で迷子にもなりました。
それだけにこの迷子札は好奇心あふれる行動派の彼には必要不可欠なものでした。
志賀家は兄が家督となるはずだったのですが直哉の出生を前にして病気で早世したことが彼の人生を大きく変えることになったのかも知れません。
多くの文人がハングリーだった中で彼は特異とも言える存在であり、少年期から青年期にかけて多くの道楽を経験しました。
後にこの半端でない道楽が志賀文学の核となることになります。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

こんにちは。
直哉の幼いころのやんちゃぶりのエピソードから、無神論者としての姿勢を貫いた生涯に、決して流されることのない意志の強さを改めて感じます。
裕福の環境の中ではかえって貫くことが難しかったと思います。
それが直哉の人柄と作品の魅力となって残っているのですね。
綿密な調査を土台に綴られた記事に感服です。MN!

URL | はぐれ雲 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

はぐれ雲さん、作家や演出家、マンガ家の多くは学生の頃、映画に熱中しましたが、彼の場合は義太夫でした。
それと各地への旅道楽(その後家族ができてからは引っ越し)が彼の作風に大きく影響したのかも知れません。
普通の人には大人になって裕福になってからしかできなかった道楽を彼は若い時からやっていたのです。
ちなみに彼が高等科のころの一ケ月のこづかいは今の金の金に換算して70万くらいだったと言います。
ちなみに若いころ、内村鑑三に師事したときの彼は生ぬるいキリシタンだったと「大津順吉」の中で自ら語っています。
従って彼はその後徐々に無神論者になっていったのではと推測します。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

こんばんは。
コメントしたつもりでしたが、誤ったされなかったみたいです。
ミック様の記事を読み、志賀直哉の事が少しずつ分かってきました。彼には骨董のエピソードが多いのですが、物にはあまり執着しなかったようです。川端康成は、骨董への執着が仕事へのエネルギーだったとも言えますので、コレクターとしては対称的といえると思います。
裕福だった志賀直哉の境遇は、その作風にも良くも悪くも影響を与えたのではないかと推察いたします。

URL | ひがにゃん ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

ひがにゃんさん、今まで彼の作品側からだけの考察だったのが他人の視点からなされる。
そういう意味においてこの二冊の本との出会いは大きかったですね。
そして彼の幼年期、少年期、青年期の性格形成を語るうえで避けて通れない石巻生家と麻布の邸宅の様子の概要。
これで一気に途切れていた線が繋がってきたような感動と興奮を感じます。

阿川弘之氏の本には下刊もあるので彼と骨董との関わりが出てくるものと期待しています。
今は知識不足で暗夜行路に書いてあることくらいしか申し上げれませんが、わかり次第お伝えしたいと思います。

いろんな意味で好き嫌いがはっきりするのが志賀文学の特徴のような気がしております。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

志賀直哉の研究、着実に進められておられますね…。。。それにしても、ご自身の生家と志賀直哉の生家が300mと離れていないなんて不思議な縁ですね~。。。

URL | boubou ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

boubouさん、実は生家が近いだけでなくていろいろなところが似ているのです。
でももちろん文才と資産だけは全然似てないのです(笑)

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

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