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 勇気と経験学よって成就した四百年前の大航海
 日本人として初めて太平洋を渡ってヨーロッパに行った慶長遣欧使節団出港から来年でちょうど400年になる。現在、いろいろな行事が計画中であるがその行事の口火を切るシンポジウムが本日11月18日、仙台市博物館で開かれた。
 
 11月3日は石巻市のサンファン館会場で主に「支倉常長」の人となりと使節団の国際感覚に関する開催されたばかりで、今回は仙台に会場を移しての開場となった。今回のシンポジウムのテーマはサンファンバウティスタ号の航路についての検証である。
会場の仙台市博物館(青葉区)、シンポジウムは午後1時半からだったが、私は12時過ぎには同館に到着し、慶長遣欧使節団の予備知識をあらかじめ頭に詰め込むことにした。

「遥かなるロマン」河北新報社発刊は写真が多く、使節団の歩んだ道を順を追って説明しているので非常に見やすい。
午後1時に開場、シンポジウムの参加者は200人以上に上り、歴史的大事業への関心の高さを見せていた。

入口で予約番号をチェックしステッカーを胸に貼るよう告げられ中に入った。

初めに同博物館の遠藤館長から「来年はユネスコ登録される見込みのこの歴史的大事業の400周年の節目を皆さんとともに盛り上げていきましょう。」と挨拶があった。

続いて元日本丸(現役の帆船)船長の山本訓三氏からこの日のメインであるサンファン号の太平洋での航路の説明があった。

航路を説明する前にこの航海に使われたサンファン号について説明する。船は帆が2枚しかなく最高速は3海里/h(時速5.6キロ)がやっとだったとのことであり、これに対して最新の日本丸は5海里/h(時速9.3キロ)ということであった。なんとサンファン号の速度は人が歩く速度とあまり変わらないことになる。

これは同誌に載っていた海上保安庁塩竈提供の資料だが日本近海にはこのような黒潮という暖流が流れており、黒潮は太平洋を東へと向かうこの航海にも使われた。

 太平洋を横断する航路はマニラ・ガレオン航路と呼ばれ、往路と復路が完備した1565年から実に250年近くも使われることとなった。
 
 世界的にはヴァスコダガマによって発見されたインド航路やマゼランによる世界一周航路も有名だが、この時代における新航路の発見は国家に新たな貿易ルートと莫大な富をもたらすものであり、非常に大きな意義のあることだった

 赤で囲んだ部分がマニラ・ガレオンのルートである。山本氏(元日本丸船長)からはこのルートは海流と季節風を巧みに利用したものとの考察があった。また復路のマニラルートでは少なくとも8月初めにフィリピンを通過しないと台風と遭遇し遭難する確率が高くなるので、メキシコから日本に向かうには出発日を逆算して定める必要(具体的には4月ころに出港)があったということであった。
 
 サンファン号も何度か嵐に遭遇したとされるが、山本氏の「嵐に遭遇した時の船乗りは経験学を駆使するものです。」という話が非常に印象に残った。現在のような航海術が確立していない当時は経験学が航海の多くの部分を占めていたものと推測される。
 
 同氏はこの時代の太平洋横断は大変な勇気が必要だったはずで、その根底には伊達政宗の欧州貿易実現への大きな夢があったのではと語っていた。ちなみにこの航海では太平洋横断に2カ月、メキシコに着くには更に1ケ月の合計3カ月の期間を要してる。

この後、休憩をはさんでディスカッションに入った。サンファン号が船出する2年前に慶長の大津波があって大打撃を受けた岩手、宮城沿岸と遣欧使節の意義が焦点となった。伊達政宗はこの大打撃を乗り切るために景気づけの意味を含め、あえて使節の派遣に踏み切ったのではないか?との意見も出された。

 山本氏によるとこのビスカイノという人物(元スペイン高官)の存在が大きかったのではということだった。
 
 彼は表向きには船客扱いだったが500トン級の巨大帆船は経験のない日本人には到底扱えるものでないことから、、船の中では彼の多くの航海探査で培われた経験学が相当活かされ、スペイン人航海士らに操船を直接指図していたことが十分考えられるということであった。

 これはマニラ・ガレオンを航行した船が入港した当時のメキシコのアカプルコ港の絵である。一行の中にはここで離れてこの地に永住した者もあるとされるが、3カ月かかって太平洋を越えた支倉ら一行はここに着いてさぞかし安堵したことだろう。 
 
 熱帯に属するメキシコのアカプルコ、むろん支倉らにとって山々の赤茶けた岩肌、サボテンや見知らぬ熱帯植物を見たのは初めてのことだったろう。そんな中で彼は風景に見入る余裕はあったのだろうか?
 
 否、実直で主君への忠義を貫いた彼のこと、来るべき陸路への懸念、大西洋への船出…そのことで頭がいっぱいだったのかも知れない。宣教師のルイスソテロ、忠臣支倉常長、誇り高き元スペイン大使ビスカイノ、幕府からの使者、伊達藩の足軽、商人…様々な野望、思惑を持った男たちの織りなすドラマは今でも我々をロマンへといざなう…。

使節団を航海術からで見た今回のシンポジウムは、歴史一辺倒の見方とは違った視点があり、この事業の全体像を掴む意味で非常に有意義なものであった。                       
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コメント

No title

歴史、大航海、男のロマン、400年経った今でも、伝わって来るものがあります。日本人の素晴らしいところを再認識させてもくれます。
今日は良い記事を読ませてもらいました!

URL | 行雲流水 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

大航海時代から百年ほどで、さほど航海術があったとも思えませんが、ヨーロッパに渡った支倉常長一行の勇気と、伊達政宗の野心と決断には、感嘆せざるを得ないです。二ヶ月の間の水や食料の補給をどのように行っていたのかも、興味があるところです。

URL | ひがにゃん ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

現在でも宮城県沖は豊富な漁場。それは複雑な潮の流れを意味していますね。
そういった現場の経験を多く積んだ船乗りが多かったからこそ支倉一行は太平洋を横断出来たのでしょう。
現在でもメキシコまで行くのなら飛行機でテキサスまで11時間。そこで乗り換えて2時間かかる大移動です。先人達の忠義の行動力には頭が下がります。

URL | スミチカ ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

こんばんは。
日本は海に囲まれた島国ながら、航海の歴史は乏しいように思います。
初の遣欧使節団の並々ならぬ勇気と、それを実現させた伊達政宗の夢、輝かしい歴史ですね。
意義深いシンボジュウムに参加されましたね。MN

URL | はぐれ雲 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

行雲流水さん、この話をお聞きして科学の目から見たこの大航海は理にかなったものという気がしました。
歴史を一つの角度から見るのでなく多角的に見るのは大切ですね。

今までこの航海の見えなかった面が見えてきました。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

ひがにゃんさん、現在伺い得る資料の中でこの航海の乗組員が置かれた環境について述べます。
ビスカイノのつけていた日誌から彼はこの航海の水と食料の不足を訴えていたようです。
また壊血病のリスクは相当あったはずです。
この時代(と言ってもだいぶ前になりますが)、マゼランやガマの場合は2カ月を過ぎた航海では壊血病で倒れるリスクが増したようです。

またこの時代はまだ壊血病がビタミン不足から来るという事実が解明されてなかっただけにリンゴも積んでなかったと思われます。
このような状況での航海は死と隣り合わせであったと推測されます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

スミチカさん、この大航海の大船を動かす技術は相当の部分でビスカイノが関わったと思われます。
ちなみに月ノ浦を出港した1613年10月27日(陽暦)は満月で満潮でした。
サンファン号は満潮の夜に引き潮を利して船出してというのです。
またこの時期は北西の季節風が吹く初めのころにもあたります。

ただしビスカイノは日本を敵視していた面もあり、造船技術や航海術の出し惜しみ(手抜き)もしていたようです。
これがサンファン号の時速3ノットの遅さに繋がった(3枚帆が2枚帆より優れているのにこれを採用しなかった)という分析も近年されているようです。

日本への布教による名声(ソテロ)、名声と富と日本への懸念(ビスカイノ、商人)主君への忠誠(常長)…様々な思惑を持った者が呉越同舟で乗り込み、黒いとぐろを巻いたのがこの航海ではなかったのか?と思います。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

はぐれ雲さん、この航海がマニラ・ガレオンに基づいて成されたものであったことが理解できました。
元日本丸船長の話ですが、現在の帆船航海はパイロットチャートという月ごとの海流や風をまとめたデータを駆使して行われるとのことでした。
こういうデータのなかったこの時代の太平洋横断は大変な勇気が必要だったのでは?と述べられていました。

幕府の人間も乗りこんだものの、伊達政宗の夢を多くの人物に託したという印象を一層強くした昨日のシンポジウムでした。
MNありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

壮大なロマンと共に航海の歴史を違った視点で拝読できたような気持ちでした。
この時代に日本でサンファン号が初めて目にされた時は
貿易や色々な未来への期待も広がった事でしょうね。
世界的に有名な航海は歴史的資料として知っていますが
今回のシンポジウムの様な説明はより身近なものとして
大変興味深く感じました。

URL | joeyrock ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

シンポジウムを聞きに行きたかったです。。。https://s.yimg.jp/images/mail/emoji/15/ew_icon_a441.gif">残念
やはり、、、震災復興の為の派遣だったのでしょうか???
幕府の技術を借りて船を造り、国交を結ぼうとする大胆不敵な政宗公に・・・https://s.yimg.jp/images/mail/emoji/15/ew_icon_a349.gif">https://s.yimg.jp/images/mail/emoji/15/ew_icon_a461.gif">

URL | M.ROSSO ID:79D/WHSg[ 編集 ]

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joeyrockさん、「マニラ・ガレオン」からはロマンあふれる語感を感じます。
このルートを使って当時のスペインはメキシコとフィリピンの貿易を頻繁に行い莫大な富を築いていきました。
もちろん彼らの貿易の陰には野望や思惑があったでしょう。

でもこれを日本でもやろうとした男たちがここに居たのです。
その多くの男たちの裏には名声と富への誘惑が働いたことでしょう。
でもその中には主君への忠誠を貫いた実直な一人の侍も居たのです。
それを思うと熱い思いがこみ上げてきます。

科学の目で見た大航海の妥当性は納得しました。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

ロッソさん、1611年の航海で船を損傷したビスカイノは当初家康に援助を申し出たのですがかなわなくて政宗を頼ったとされます。
政宗はそんな彼を利ありと見てスタッフに引き入れました。
この辺りに私は幕府と調和をとるように見せかけながらも野望の灯を消せない彼のサガを見る思いがします。
この航海、或いは最後の一発逆転になりうることを彼は相当意識していたのかも知れません。
ディスカッションでは迎えの船を出し、常長が帰路フィリピンに立ち寄った際も希望は捨てていなかったのでは?との意見が聞かれました。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

ミックさん、おはようございます。

大航海が400年前に出来たのは凄いですね、当然帆船でそれほど
大きな船でないのに、良く航海が出来たものです。

今では、大きな船で楽しい船旅ですが、当時は命がけでしょう。
先人の勇気が今の時代を築いているのですね。
素晴らしい事です。

ナイス!です。

URL | 好日写真 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

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好日写真さん、サンファン号は現代の船とは比べるべくもない大きさですが、この帆船の大きさは500トンで、当時の技術ではこの大きさは扱いやすい限度であったようです。

仮に700~800トンになると取り回しが非常に難しくなり座礁の危険もあったようです。
貿易で荷物を大量に運ぶには大船が必要になりますが、当時このあたりの検討は相当されたのではないかと思います。
ただしスペインは造船技術は国家の最高機密としていたためにある意味でこの船はまやかしの設計(マストを短くしたり2枚帆にすることでスピードを出なくする)がされたとの専門家の意見もあります。

呉越同舟でいろいろな人物が乗り込んだサンファン号ですが、この大航海の裏には伊達政宗の夢と野望があったのではと思います。

ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

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