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  父との確執を乗り越え強い自我を確立する
昨日インターネットで、志賀直哉が書いた私小説「山形」を読んだ。本作は短編ではあるが彼の生きざまと作風を論じる意味で避けて通れないものを感じブログに掲載する次第である。


  
大正15年12月発表、志賀直哉「山形」粗筋(原作を基に横町がアレンジ)
 
それは明治37年(1904年)、志賀が21歳の時の出来事だった。ふとしたことで父と対立した彼はある日、新しく手に入れた宮城県の銅山に行かないかと持ちかけられ、喧嘩した後ろめたさも手伝いこれに応じる。
 
夜行列車で翌朝、仙台に到着し父は鉱山監督署へ、私は北一番町(現:仙台市青葉区北一番町)に住む祖父の妹を訪ねた。大叔母は直哉の不意の訪問をひどく喜び、お小遣いの施しまでもらった。
 
※直哉が旅行した当時とほぼ同時の仙台市街図地図(明治38年1905年)
赤破線:国鉄東北本線、黄色線:北一番丁



あくる日仙台から小牛田(宮城県北部の交通の要衝)まで汽車で行き、所要のある父と再び別れた。私は乗り合い馬車で鳴子(宮城県北西部に位置する古くからの有数の温泉場)に一人で向った。ここで後から来た父と落ち合い、その晩は久しぶりにくつろいだ気持ちで話し合った。
 
※この旅行における志賀直哉の行程を地図で確認して頂きたい。
赤線:鉄道、黄色線:乗り合い馬車、人力車を使用しての陸路
A:小牛田、B:鳴子、C:鬼首、D:山形で志賀が立ち寄ったとされる寺



実は足尾銅山(志賀の父が経営した銅山)はお祖父さんがS家(相馬家)の財政(志賀の先祖は相馬藩の家老を務めた家系であった)を立て直すためだった。そうでもしないととても立ち行かない状態だったのだ。(3年前に直哉は父が経営する足尾銅山鉱毒事件の視察をしようとし、これが原因で父と確執を起こしていた。)
 
※相馬藩士の家老の血を継ぐ志賀直哉の父、直温。昔気質で直哉とは馬が合わないのか?若き直哉とは様々なことで衝突し、一時は勘当するに至る。



そんな貧乏にあえぐなか、お前のおっ母さん(先妻)に来てもらった。私は亡くなった実の母を父が口に出すことは滅多になかったので感動さえ覚え、父子らしい感情が湧いてきた。翌日早起きして四里(約16キロ)ある熊沢という銅山に出かけた。
 
案内役の鉱山技師からいろいろと説明を受け、新しい事業に対する父の期待を感じたが、世間を騒がせた鉱毒問題のこともあり、私は冷え切った心でそれを見ていた。
 
※ほぼ当時における志賀直哉の旅行姿



その晩は鉱山の飯場に隣り合わせた事務所に泊ったが蚕にせめられ、よく眠れなかった。あくる日滝壺で素潜りで鱒をとる屈強な若者を見て、水滸伝の張順を思い起こした。鬼首(おにこうべ)は宿が一軒あるだけで思いのほか淋しいところだった。
 
東京を出てきょうで6日目になり引き返すことを考えていると父から「お前は帰り山形に寄ったらどうだ?」と言われた。私は親しい叔父(直哉より4歳年上)に会いたい一心もあり、これを快諾した。しかし父から支度金をもらった際、そう思っていたにも関わらず「余った金は返せ。」と言われ、金に几帳面な私は侮辱されたように思いまたしても憤ってしまう。
 
翌朝、父と別れ新庄までの16、7里(70キロ弱)を俥(人力車)で向った。私は途中で尻が痛くなって閉口した。日露戦争で片目を失い退役将校となった叔父は山形のMという盲人の僧の付き人をしていた。叔父の家(下宿屋の2階)に着いた時は既に夜だった。この時、私の不意の訪問にさぞかし驚くだろうと思っていた叔父は既に父から私が来ることを手紙で知らされたことを知り、私はなんらかの仕組まれた意図を疑い、不快に思った。
 
翌朝、叔父と二人でMさん(全盲の僧侶)宅を訪ねた。M僧は雑談する中で突然「あなたは社会主義についてどう思っているのか?」と問われる。どうやら父や叔父は私が最近社会主義にかぶれていると思いこみ、M僧にそう話したらしいと思った。



私はわざと話題を変え、「昔は殿様の御前で討ち死にするのが名誉とされたが、今学校にいる馬鹿な連中(私の通っていた学校は大名華族の子弟が半数以上を占めていた)のために討ち死にしても名誉とは思えなくなったのは当たり前じゃないですか?」と答えた。
 
M僧は「とにかく、学生の間は学生らしく、いい成績で卒業するのが一番だ。今は肩書の世の中だから大学はなにをおいても卒業することだよ。」と語った。私はこんな説教を聞くために山形に連れ出されたと思うと不愉快で腹が立った。
 
M僧の家を出、叔父から「お前はM僧の話をどう思ったか?」と聞かれ「非常にくだらないと思った。」と答えた。叔父は返事をせずに不快な表情をした。午後から私たちはM僧の寺にいき、M僧の息子と会い、近くの川で日が暮れるまで泳いだ。その夜は寺の書院に泊った。蛙の鳴き声が響く中、3人は10時には蚊帳に入って眠りについた。
 
翌朝、M僧の息子と別れ、叔父と二人でまた泳いだ。叔父は昼から私を川魚料理の家に誘った。素人屋風ながら庭には捨て石や松の木があり落ち着いた趣の家だった。料理が出るのを待っている間、叔父と話をした。「お父さんとの衝突もいいが、こと皇室に関するようなことをいうのはよせ。」「こちらも言いたくないが考え方の相違がある場合、右のものを左とは言えない…」私がそう言い終わらないうちに叔父は怒鳴った。「馬鹿!」氷水の入ったコップが飛んできた。私は首を傾けてかろうじてかわすとコップは私の頬をかすめて庭石に当たって烈しく砕けた。
 
私は興奮しながら言った。「考えた上のことだからしょうがないじゃないか。」叔父は返事をしなかった。そして二人は一緒に声をあげて泣き出した。大きな鮎が膳に出されたが、私は食欲がないまま、口に運んだ。
 
叔父の家に帰る途中、叔父から「お前はもう今晩帰れ。」と言われた。私は黙ってうなずいた。私は叔父に対してはなんら不愉快を感じなかったし、自分が危険思想に進んでいるとは思わなかったが、このままことが一方に進めば自分は誰よりも先にこの叔父に殺されるだろうと思った。私には殺される恐怖を感ずることは許されなかった。しかし孤独で淋しい気持ちになって、一人停車場に向った。
 
読後感想by横町
 
典型的な私小説である。21歳の時のことを43歳の年齢で発表した志賀だがこの背景にはなにがあったのだろう?当初、父との仲直りを兼ねた気軽な宮城県旅行と思っていた直哉は、途中で裏に潜む父の思惑を感じ不快に思う。そして父の思惑は叔父やM僧にも及び、この旅が直哉への説得を目的とした仕組まれたものであったことに気づく。
 
相馬の家老を務め志賀家は家柄を重んじる封建社会の名残を残す名家であり、志賀はその家督相続の期待をになっていた。そのような背景の中での直哉と実業家であった父の確執は暗夜行路や和解、大津順吉にも登場し有名である。社会問題となりつつあった足尾銅山鉱毒問題に際し志賀は父の意見を退け、世論を支持し逆に調査にまで携わろうとした。直哉は若気のいたりで当時悪態もついたが、強い信念と毅然とした倫理観があったのだろう。
 
この時の彼はM僧や叔父の心配をよそに直哉は既に強い自我を確立していたのではないのだろうか?「最後の誰よりも先に叔父に殺されるかも知れない」という部分には志賀家に対する両者の純粋な思い(なによりも志賀家の存続が大切)と武士道が感じられる。
 
今となっては古い考えで一蹴されそうな感あるが、当時はそんな考えが普通だったのでないだろうか?直哉から見る四つ違いの叔父は叔父と言うよりも兄貴という感が強かったのでないだろうか?家の存続を心から思っている兄貴のような叔父に殺されるのは本望とも受け取れる。
 
時に43歳、人生の円熟期を迎え、父と和解に至った直哉は吹っ切れたのだろうか?人間として一回りも二回りも成長した彼をして若き日の苦々しい思い出さえ、筆をとる対象として化したのだろう。
 
枝葉ではあるが、叔父と一緒に川で豪快に泳ぐ直哉の健児ぶりには文豪に相応しくないたくましささえ感じる。学習院大時代はボート部に在籍した志賀だが、筋肉隆々たる二の腕をスナップ写真に見ることができ、質実剛健、文武両道は志賀家の男子の伝統とも受け取れる。
 
また往時の鉱山や未発達だった交通事情、男女混浴だった旅館の浴場、仙台や鳴子、鬼首、山形の状況が文から伝わってくるのも極めて興味深い点である。
 
父との和解を得て、人生の円熟を迎えた志賀直哉の大器ぶりを彷彿とさせる不滅の私小説。
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コメント

No title

このお話は初めて拝読しました。
時代背景などや、男性ゆえの誇り、そして父と子の確執
色々な情景が浮かぶような気がします。
直接話し合えば分かり合えると言う事も、遠まわしに悟らせる事も
色々な距離感が父と息子は難しい、と思える話がありますけど
このお話もそうですね。
でも他人行儀ではなく中には隠された父の息子への愛情や威厳、
息子の思いも交差しながら考え深い話だと思いました。

URL | joeyrock ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

こんばんは。
志賀直哉の家は、そのような家だったのですね。初めて知りました。身体に染み付いた封建社会のDNAと、新しく向かうべき理想の狭間での葛藤があったのですね。
志賀直哉は、骨董の審美眼が鋭く、数々の名品を所持していますが、一方で簡単に寄贈したりする淡白な面もあったようです。芯はしっかりしているが、あまり執着する人では無かったのかもしれませんね。

URL | ひがにゃん ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

小生は比較的沢山の小説を読みましたが、志賀直哉だけは不思議とご縁がなくて・・・ミックさま、今日は有難うございました。

URL | 行雲流水 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

joeyrockさん、古いしきたりをもった旧家に生まれたがゆえの葛藤は多くの作家の作品に現れますが、志賀の場合確固たる信念があったようで自己葛藤でなく、あくまで父との確執となっているようです。

一連の作品に見られるこの確執にはよくこの叔父が登場してきます。
和解する前、煙たがっていた父の存在ですが、兄貴変わりの叔父によって志賀は相当救われたのではないか?と推測します。

本作の最後の部分(締め)はこの叔父に殺されるなら本望だとも受け取れ、彼の内に秘めた武士道を感じます。
昔気質でありますが、読む者が背筋を伸ばされる思いのする彼の作品です。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

ひがにゃんさん、志賀は芯がしっかりしているがゆえに周囲との摩擦も多かったわけですがそれを終生貫き通したという重みを感じております。

外連味のない人柄は作風にも現れ、骨董趣味にも反映していると思います。
これは彼の作品の清兵衛とひょうたんに登場する超高値を付けたひょうたんの形状が物語っています。

長編、暗夜行路には神社仏閣巡りとともに呂紀の中国画や鳥毛立屏風が登場し、彼の骨董趣味を垣間見る思いがしますが、これによってこの作品を俗的なものから、文化的なものにのし上げる効果も演じています。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

行雲流水さん、志賀の作品は昔気質ですが、気骨があるところにひかれます。
私小説の中に息づく彼の倫理観を見出す時、もっとも彼らしい一面が見えるのです。

本ブログでは過去に「城之崎にて」、「清兵衛とひょうたん」、「小僧の神様」、「和解」、「暗夜行路」と今回の「山形」を加え六作を取り上げましたが、今後もこの数を増やして参りたいと考えています。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

こんばんは。
志賀直哉、芯が強く、封建社会に反発しながらも、武家の名家に生まれた事の自負はやはりあったのでしょうか?
志賀直哉の壼、と呼ばれる李朝の白磁の壼がありますが、一見何の変哲もありませんが、よく見ていると実に味わいある質実剛健な壼です。彼自身、そして作品もそのような雰囲気があると思います。
暗夜行路、中学生時代に読みましたが、美術やら神社仏閣が出てきて、舞台もあちこちに移動して、当時の自分には難解でした。

URL | ひがにゃん ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

こんばんは。
この作品の存在を初めて知りました。
志賀直哉の抱える心のうちの確執や葛藤の滲み出ている、ずしりと思い作品ですね。
関西に住んでいますと、奈良在住の頃の志賀直哉の随筆などを読むことが多くなり、その頃の穏やかな暮らしぶりのイメージが強くなってしまいます。
志賀直哉の知らない一面を知ることが出来ました。
有り難うございます。MN

URL | はぐれ雲 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

ひがにゃんさん、志賀直哉は武士の家系に生まれ父から厳格に育てられ武士道を教わったことでしょう。
しかし倫理観に優れていた彼は、封建制度や資本主義に批判する確かな目があったと思います。
但し、志賀家を大切にしなければならない気持ちがあったことは事実で、これは叔父との会話や父との和解からも見てとれます。
芯がしっかりしているがゆえに他の作家とも衝突しました、そこに彼の気骨と哲学を感じます。

暗夜行路、本筋は私小説でありながら歌舞伎見物や京都の社寺や各地の骨董を織り交ぜ、文化の色合いが深く漂う名作となっています。
終盤の山場(大山)で見せる主人公の無我の境地は仏教思想の涅槃を連想させ共感できる部分です。
無神論者だった彼ですが、常に批判の目を持ちながらも、様々なことを世間から学び取り、独自でその境地に達した姿勢は尊敬に値します。

PS:暗夜行路も本ブログの「志賀直哉シリーズ」(2012年元日投稿)で取り上げておりますので宜しければご覧ください。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

はぐれ雲さん、志賀の作品には社会倫理観を感じる作品が多いですね。
暗夜行路や和解を読むと、父との確執と和解が彼の人生を大きく左右したことがわかりますが、本作「山形」はその辺りの背景が途切れた部分を見事に埋め合わせしています。

父との確執は志賀の実生活のいろんな部分に影響したわけですが、一連の作品を読むと、実は4つ違いの叔父が相当の役割(兄貴代わり?)をになっていたことが読み取れます。
叔父は志賀父子の確執を埋める役割(かすがい)の役目さえ演じていたのでは?とさえ思う叔父の存在です。

ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

ミックさん、こんにちは。

私は若い時から、本を余り読まず後悔しています。
ですので、名前はわかりますが、恥ずかしい限りです。

ミックさんのブログを拝見して大変勉強になります。
上手くコメントができません。

ナイス!です。

URL | 好日写真 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

好日写真さん、ナイスを頂きありがとうございます。
素晴らしいお写真をいつも楽しみにしております。
こちらこそ宜しくお願い致します。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

あの足尾鉱山を志賀家が経営していたとは知りませんでした…。。。

URL | boubou ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

boubouさん、貴ブログの一輪車に跨った彼もやんちゃですが、学生服を着たまま寝ころんでいる写真もやんちゃですね。
父や権力への抵抗も感じなくないですが、ここは彼一流のユーモアと捉えたいと思います。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

ミックさん こんばんはぁ~☆!

自分の考えをしっかりと持っていた直哉の
葛藤は、とてもよく分かる気がします。
直哉自身のその当時の本当の気持ちと、
父親の態度の違いに、秘かに心傷つく直哉の
気持ちが痛いほどよく分かる気がします。

今の様に、家などあまり関係のない時代と違って、
この時代だったからこそ、直哉は余計に
苦しんだのかも知れないですね。

ただ、今よりも昔の人の方が精神的に
苦労した分、人間的に大きくなれた様にも
感じます。今の時代、「自由」を履き違えて
いるのかも知れないですね・・・

ナイス!☆

URL | Maya ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

Mayaさん、本作もそうですが、和解にも登場する4つ違いの叔父の存在は直哉にとってことのほか大きいものだったのではないでしょうか?
実は直哉は二男でしたが、志賀家の家督になるはずだった実兄は2歳で夭折しているのです。
そういう事情により直哉は家督として育てられました。
そして祖父母に甘やかされながらわがままに育ちます。
父に逆らった直哉をしてもこんな叔父にはなかなか頭が上がらなかったのではないでしょうか?

放蕩し落第した学生時代、中退した大学…実はこのころ37歳から書き始めた暗夜行路の執筆が進まなくなりスランプに陥ります。
しかしながら彼は道楽におぼれ落ちぶれてゆく人間でありませんでした。
彼は志賀哲学とも言える極めて強い自を確立し、恵まれた才能と磨かれた感性によって雑念をはねのけ一流作家として羽ばたきます。
スランプ時代の美術館廻り、仏閣巡り等で得た彼の心境がこの作品で花と開いたのです。

それは暗夜行路を描き上げた54歳の時でした。
直哉の中で大きく人生観が変わったはずです。
本作はその前の直哉の心境を察するには格好の名作であると思います。

ナイス

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

トラックバックありがとうございます。

志賀直哉の作品をあまり読んだことがないので
作品に入っていくのが なかなか難しいです。
名家の生れで 厳格な父とおぼっちゃん。。。でも
若いころから自分という存在を見据えているように思えますね。
父親との旅 あんがい根回しされていたのですね。
そのくらい家を存続させることが最重要課題だったのですね、その時代は。

しかし ミックさんの引用されているところでしか
読んだことがないのですが
さすがに 素晴らしい文章 文体だとおもいます。

URL | つや姫日記 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

つや姫さん、トラックバックを頂きありがとうございます。志賀直哉を広辞苑で調べますと散文に於ける一到達点を極めた作家とされております。
彼は形容詞によるつけたしを嫌った作家でした。従って簡潔な文章であるにも関わらず、読者に強いインパクトを与えるのです。
強靭な自我とも称される彼の哲学は芥川や太宰さえ寄せ付けない潔癖とも言える倫理観に彩られていました。
彼の代表作は暗夜航路とされますが、これはあくまで長編でのことで、短編の代表作はこの「山形」と言えると踏んでおります。
きょうはその理由を述べさせてください。志賀は恵まれた家庭環境で育ちましたが士族的な「家」の価値観は対立した父ではなく、祖父や叔父から授かったと受け止めております。
そういう意味でこの作品には大きな意義があるのです。まさに直哉の真骨頂ここにありです。コメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

こんばんは~

志賀直哉山形の旅拝見しました。
ヤフー時代に書かれた記事ですね。士族の家柄で父との確執もあったようです。志賀直哉の作品は学生時代に読んではいますが「山形」はまだ読んでおりません。今出会って良かったと思っております。兄が2才の時無くなって多少わがままに育てられたと思います。
宮城県石巻出身ですね。

格調ある記事有難うございます。
皆さんコメントも素晴らしいと思います。

学ばせていただきました。

ボタンとリボンさん、ありがとうございます。

おはようございます。実はこの時期になると、或いは隣県の山形県に足を運ぶと、志賀直哉のことを思い出します。実は直哉にとっての山形の旅は二回目であり、十代後半に相棒とともに最上川を船に乗って下り、酒田に宿泊したということが別な作品で取り上げられています。彼は血気盛んで負けず嫌いな性格でしたが、この時既に強い自我が確立されていたのを思い知る気が致します。

実業家の父とはやがて対立してゆきますが、この時の直哉は経営に携わる足尾銅山の鉱毒事件のこともあり、不信感を通り越し嫌悪を感じていたのかも知れません。それが叔父への応対に現れたものと捉えております。叔父や僧侶と合わせること自体、直哉には”仕組まれた罠”のようで、後味の悪い旅だったかも知れません。但し、やがて30前後に父とも和解して、大人になってみればほろ苦いもの(元軍人の叔父とはその後いい関係を保っただけに)を感じたのでないでしょうか?

作品にはそんなほろ苦い部分も感じています。宮城県の鬼首の滝壺で素潜りしてイワナを捉える屈強な若者のことが断片的に登場し、その様子を直哉は「水滸伝の一幕を見ているようだ」と語っています。何事にも好奇心旺盛な若者であった直哉の一面と受け止めております。

学習院に在学した直哉のクラスメートは両家の子息が多かったようですが、そのような古い体制にも直哉は反感を抱いていたものと察しております。直哉にグラスを投げつけた叔父の熱血ぶりも圧巻です。直哉を何とか立ち直らせようと必死だったようです。そしてこの旅行から22年を経た43歳にこの作品が発表されました。37歳で長編『暗夜行路』を連載した後になります。直哉としては「やれやれ、自分にもこのような時があったんだな」という気持ちで、『山形』を書いたのではないでしょうか?

ボタンとリボンさんには、分不相応なお言葉を頂戴し恐縮しています。本日もお志を頂戴しました。コメントを頂きありがとうございます。

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