fc2ブログ
藩政時代の名残を残す仙台の足軽町
仙台の現若林区はかつて藩政時代に職人町や足軽町が急速に広がっていった。
これは伊達政宗が若林城を建設した1627年以降のことである。
この地区のそんな面に私はロマンを感じ、本日その面影に触れる小旅に出ることを決めた。
 
地図を参照して頂きたい。
オレンジ線:本日たどったルート
黄色線:旧道、東街道
 
なんと半径300メートルの中に神社が五つもある。
これは東街道と近接しているところが相当影響しているものと思われる。

本日の探索で参考にした資料は次の文献である。
「若林の散歩手帳」木村孝文著
「仙台まち歩き」西大立目祥子著

あいにくの雨模様となったきょうだが、私は荒町~南鍛冶町経由で、この五つの町で一番南側の六十人町にアクセスした。

以下、仙台市「町名に見る城下町」より引用
 
六十人町:畳屋丁から東に延びる五十人町南側の町。正保年間の地図(1645~1646)では「中間(ちゅうげん,武士の下働きをする者)屋敷」となっているが、その後は足軽が住むようになり、幕末には足軽が町の名のとおり六十人住んでいた。
町の鎮守として城取神社が祀られている。
 
これは六十人町の東側のビューである。400年近くを経た現在、往時の面影を探し出すのは至難の業であるが、ほんのわずかな名残でもいいのでなんとか見出したい…私はそんな思いを感じながらバイクを超徐行させながら、目を皿のようにして周囲を伺った。

するとこの界隈では一番古そうな屋敷が視界に入った。
足軽の家の子孫のかたが住んでおられるのだろうか?
表通り側の間口に対して敷地の奥行きが深いことも文献に書かれている通りだ。
だがこの建物とて、せいぜい古くても大正時代か昭和初期の建築のようである。

この屋敷の裏にはご覧のような畑が広がっていた。
住宅地の中にこんな畑があるのは驚くべきことであり、昔からの農地といった感じがする。
或いは藩政時代からさほど変わってない稀少な風景なのかも知れない。
 
これを裏付けるように若林の散歩手帳によるとこのあたりの足軽達は生活を補うために野菜を耕作して、市場のあった河原町(この場所から西方1キロほどの場所)に売りに出ていたとされる。但し彼らの身分は士分であったために腰には一本刀を差し、編笠で面を隠し、天秤棒を担いで野菜を運んだようである。

これは六十人町に祀られている城取神社である。城下と旧南小泉村との村境に祀ったとされ、町割りの地縄張りの縄を埋めたため城取明神と称したと言われる。

これは六十人町と東街道交差点で撮影したもので東街道の北側のアングルである。
ご覧のように道が細いということがせめて旧道であることのなごりとも言える。

六十人町を東進した私は新しくできた大通りに抜けターンして次の訪問地、五十人町に入った。

以下、仙台市「町名に見る城下町」より引用
 
五十人町:三百人町と六十人町にはさまれた町で、足軽五十人衆が居住したためこの名がついた。三百人町と同じく寛永7年(1630)前後には割り出されている。
町の守護神として伊達八幡神社が米沢から移された。いまは両側に住宅街が続いているが、間口が狭く奥に深い足軽屋敷の町割は受け継がれている。
 
この町も非常に細く、六十人町と同じように一方通行となっている。
ところどころに古い家屋は見られるのもの、古いもので昭和初期建築といった感じである。

五十人町と東街道の交差点にある伊勢八幡神社(一般名:伊達八幡神社)、由緒は伊達氏15世晴宗の守本尊で1600年に米沢から遷座したものとされる。

次は三百人町である。この通りはバス通りでもあり、現在、米ヶ袋~荒町~南鍛冶町~一本杉通りと仙台を東西に貫く通りの一画をになう動脈ともいえる重要路線である。
また足軽三百人から受けるこの町名は結構大きなインパクトがある。

これは三百人町西側のアングルである。
 
以下、仙台市「町名に見る城下町」より引用。
 
三百人町:南鍛冶町から保春院前丁に通じる東西の長い町。足軽三百人衆が住んだためにこの名がついた。寛永7年(1630)には割り出されたという。住んだのは鉄砲足軽たちで、福島の伊達郡に残っていた伊達家のかつての家臣たちだった。
 
慶長5年(1600)、政宗が白石城を攻めた際、戦いに参加し、再び伊達家に仕えて仙台のこの地に移り住んだ。神社の隣にある常林寺には明治6年(1873)、のちの荒町小学校となる三百人町小学校が開校した。鉄道が町を分断しており、昭和初期にはガソリンカーの駅が置かれた。

三百人町の町内にある信夫神社(しのぶじんじゃ)である。
伊達政宗が慶長15年(1610)に足軽たちの出身地である福島県信夫郡(しのぶごおり)の神社を勧請したものといわれる。

次は南から四番目の成田町である。

成田町の東側を望んでみた。この通りも住宅地ながら中高層のマンションが目立った。
 
以下、仙台市「町名に見る城下町」より引用
 
成田町:三百人町に並行し、南鍛冶町から東に延びている町。寛永10年(1633)頃に、北上川ほとりにある桃生郡成田村(現・河北町飯野川)の足軽八十四人(旧葛西氏家臣)が住んだことから名づけられた。
足軽たちは大番組(おおばんぐみ:仙台藩の戦闘の主力となった分団)に属し、組の旗を護衛する役目だったという。明治22年(1887)、上野仙台間の鉄道開通によって町の西端が線路によって分断され、現在に至っている。

この町にも、足軽たちが故郷から勧請した箱石神社(はこいしじんじゃ)が氏神として祀られ、今も地域の人々によって祭りが行われている。

成田町にも所々、昭和初期建築と見られる古い一戸建てがあった。
マンションや自販機コーナーと同居し旧折衷しているところが面白い。

成田町の西端で見られた道路の湾曲だが、これは鉄道路線との干渉によるものと考えたほうがよさそうだ。

これが最後に訪れた表柴田町である。このあたりになると中心部により近くなってきたせいか、ご覧の通り中層マンションが目立ってきている。
 
以下、仙台市「町名に見る城下町」より引用
 
表柴田町:仙台一高の南に沿っているのが表柴田町、その北側に位置しているのが裏柴田町。裏柴田町は仙台一高によって分断され、東側だけが残されたかたちとなっている。どちらも寛永10年(1633)前後に割り出され、柴田郡出身の足軽衆169人が住んだところからこの名がつけられた。

この通りの東端でもあり東街道の交点にも位置する白鳥神社を訪れた。足軽たちはこの地に故郷の守護神である大高山神社を勧請した。この神社は日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀ったため白鳥神社と呼ばれた。足軽町に祀られた神社は、その地域人々の強い結びつきの中心でもあった。
 
また、神社には「的場」とよばれた弓の稽古場や「星場」とよばれた鉄砲の稽古場が置かれることが多かった。幕末に近い安政年間の絵図にはちょうど白鳥神社の場所に「星場」と書かれている。神社はいまだ町内の人々の信仰を集め、祭りも行われている。

これは白鳥神社から見た東街道のアングルである。
この道路をどこまでも行くとかつて市のあった河原町へと行きつく。
 
藩政時代の昔人はなにを考えこの道を通ったのだろう。きょうのような雨降りの日、当時は今では想像もできないほど道が悪くきっとぬかるんだことだろう。農民は数度の凶作のもたらした危機感におののき、16石取りの足軽衆も弓や鉄砲の稽古に明け暮れ、きっと楽な暮しではなかったことだろう。
 
私は350年以上の時の流れを感じ、昔人の苦労に思いを馳せながら帰途に着いた。

                              
関連記事

コメント

No title

小生が仙台に行ったのは10年以上も前の事、駅から目的地に行って駅の戻っただけでしたが、こうしてミックさまに連れて行ってもらうと、また行きたくなっています。いろんな町名があって、昔の名残りが漂って、日本人としての懐かしさみたいなものが感じられます。

URL | 行雲流水 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

こんばんは。
町の名前だけでも、色々な由来があるのですね。五十人、六十人、三百人、わりと単純だけど、面白い町名だと思いました。
それにしても、雨の中、精力的ですね。自分には真似出来ません。

URL | ひがにゃん ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

ミックさん こんばんは。

私、連坊小路に暫く住んでいました。
懐かしいなぁ~
その当時は(若いためか…?)名前の由来や仙台の町並みに全く無関心でしたが、駅の中心から中に入るとこんなにも色んな町があるんですね~。

それで、表柴田町?に宝くじが猛烈に当たるお店があって、購入して直ぐに白鳥神社でお願いをしたら初めて買ったのに1万円当たりました。それからは買っていません。今思うと、どうもあそこで運を使い果たしたらしいんです!(笑)

とってもお勉強になりました。ナイス☆

URL | ミント ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

行雲流水さん、町名に興味を持ち、歴史を調べるのも一興ですね。
今回は足軽町を紹介させて頂きましたが、仙台には他の城下町と同じように職人町(弓ノ町、鉄砲町、南鍛冶町、北鍛冶町、畳屋丁…)も残っています。
このあたりも紹介していきたいと思います。
感想を頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

ひがにゃんさん、この日のメインテーマは文中でお伝えした通り、足軽町の探索、サブテーマは旧道東街道の探索でした。
まだまだわからないことがいっぱいですがそれを調べて少しずつ紐解いていくのが歴史探訪の醍醐味ですね。

昨日は歩いた分だけ疑問も増えましたが、興味の対象もいろいろと増えたので益々ハマりそうですね(笑)

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

ミントさん、連坊工事は私もある仕事で若いころ訪れたことがありました。
現在の住居表示にも残っている元茶畑という名称は非常に趣を感じます。
実はこの日も茶畑の名残が残ってないか探したくらいです(笑)

私も若いころほとんど興味のなかった歴史的なもの(郷土史)に目が行くようになったのはやはり仙台が好きだからですね。
好きな仙台がどんな経緯をたどって今日の発展を遂げたのかとことん調べてみたくなったのです。

表柴田町にそんな店があったとは思いませんでした。
ツキ(運)は必ず復活するものですのでまだまだこれからと思います。ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

町の名前の由来に歴史や、その背景を感じますね。
しっかりとした時代の歴史の流れを知っているからこそ
また、現在との違い、名残を残されている場所への
変化が伝わってきます。
特に、この地を知っている方なら、益々
住んでいる土地に愛着が湧きそうですね♪

URL | joeyrock ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

こんにちは。
町名がその地の歴史を雄弁に語っているようで、興味深く読ませていただきました。
そして町ごとに足軽たちの故郷の神社が勧請されていることにも興味をそそられました。
現代の暮らしの中に歴史が色を添える町の趣きがいいですね。MN

URL | はぐれ雲 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

joeyrockさん、旧道そばに建つ足軽屋敷ですが、説明書きにも記した通り、彼らのほとんどは他の地域から来た人々でした。
そんな彼らにとって郷里の守護である神社をこの地に祀るのはひと際大きな意味があったことでしょう。
この地に移ってきた彼らには仲間との結束以外にきっと「心の支え」が欲しかったことでしょう。
これが通りに一つずつ神社がある大きな理由ではないかと考えます。
土地に愛着を持つということはそんな要素も影響しそうですね。

神社以外では六十人町でこの辺唯一の農地を見つけたのが印象的なことでした。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

はぐれ雲さん、MNありがとうございます。
出身地の神社の勧請の件は前のjoeyrockさんのコメントに書きましたので参照して頂ければ幸いです。

藩政時代の足軽町の町名に彼らの頭数がついている理由について私はあれこれ考えました。
おそらく「うちの町には(藩には)足軽が○○人居るんだぞ!」という一種のアピールだったのでないでしょうか?
彼らは武士であり一方で百姓でもありました。
16石では食っていけないはずです。
これは今で言う半農の走りと言えるのかも知れません。
「武士は食わねど高楊枝」なる言葉がありますが、彼らは家族を養う為にこの農地を耕し、後世までたくましく、したたかに生き延びていったことでしょう。
そんな彼らに親しみを感じた昨日の探索でした。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

ミックさん、お早うございます。

藩政時代の名所が残っているのですね、楽しみました。

新潟も新発田と云う所に城あとや、代官所あとや武家屋敷などを復元しています。
やはり、後世の為にも名所、旧跡は大事に保存したいものです。

ナイス!です。

URL | 好日写真 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

好日写真さん、ナイスありがとうございます。
由緒あるいろいろな町名が消えていく中でこのような藩政時代の名残が残っているのは嬉しいことです。
この日の発見で一番印象に残ったのは六十人町の屋敷の後ろにあった畑でした。
16石取りながら、したたかに農地を耕し、家族を養い、子孫に美畑を残した生きざまに感動を覚えたのです。

新発田市のことも気になりますね。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

それぞれの町に違った身分や役職の人が集まって
住んでたんですね。 だから町割りごとに神社がある
。。。時にはこんな歴史散策もいいものですね。
私は観光地しか行ったことがないので地元の事は
ほとんど解かりませんもの。 ^^

URL | まゆ ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

まゆさん、こうしてみるとこの江戸時代の町の名前は身分ごとに区分けされていたことがわかります。
またこの日訪れたところは通るたびに感慨深く思い起こされます。
それはなぜなのでしょう?
それはきっと遠い昔から続く遺伝子の羅列が自分のそれとニアミスを起こす興奮に似ているからなのかも知れません。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

ミックさん こんばんはぁ~☆!

そこにかつて暮らしていた人々の生活に
想いを馳せながら、歴史のある町を巡ると、
ワクワクしますよね!!

400年という時によって、姿は変えてしまったものの、
その昔の生活の名残りを感じると、ロマンを
感じますよね。

また、ミックさんの探訪記録を楽しみに
しています。

ナイス!☆

URL | Maya ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

Mayaさん、この日は普段あまり脚光を浴びない足軽町にあえてスポットを当ててみました。

伊達藩の軍事力を底辺から支えた彼らの生きざま、たくましさに少しでも触れてみたかったのです。
16石と少ない石高、8間とされる幅の狭い屋敷の間口、彼らは妻子を養うために屋敷の裏で野菜や穀物を栽培したのです。
それでも彼らには武士としてのプライドがありました。
そうです。武士道です。
『腰には一本刀を差し、編笠で面を隠し、天秤棒を担いで野菜を運んだ…』とは若林区の散歩手帳からの引用でありますが、ここに【武士は食わねど高楊枝】の精神を強く感じます。

「マイナーなものほど脚光を浴びせる」ことをモットーに、これからも歴史の裏に隠れた部分を皆さんにお伝えしていきたいと思います。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

五十人町神社は、伊勢八幡神社ではなく、伊達八幡神社と言いますので、訂正願います。近所では八幡さんと呼ばれています。
懐かしい写真いっぱいありました。

URL | くだる ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

五十人町の八幡様は、子供の頃は、御八幡様と言っていました。子供の遊び場でした。四つ角にあり、三浦下駄屋さん、鹿野商店お塩を売っていました。柴田商店牛乳を売っていました。とても懐かしく拝見させて頂きました。

URL | ぼー ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

ぼーさん、失礼ですが上記の書き込みの「くだる」さんと同じかたでいらっしゃいますか?
幼いころのお話、興味津々にお聞き致しました。河北新報出版センター発行、西大立目翔子氏執筆の「仙台まち歩き」のP234~P237にこの辺のことが詳しく書かれているようです。
宜しければご覧になってみてください。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

コメントの投稿

トラックバック

トラックバック URL
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)