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 古墳探訪シリーズ第3弾「法領塚古墳」の探索
 当ブログではつい最近、東北の古墳の探索について掲載する旨を皆様にお伝えしたが、本日は①宮城県名取市の雷神山古墳②宮城県仙台市若林区の遠見塚古墳に次ぐ三番目の掲載として宮城県仙台市若林区の法領塚古墳とその周辺の現南小泉地区との関わりについて取り上げ、お伝えすることにする。
 
 盆休みである本日、私は仙台市中心部より1キロほど南西に位置する荒町を通って法領塚古墳のある南小泉へアクセスした。この荒町は藩政時代侍屋敷、寺町として栄えた由緒ある町である。

この石垣町は荒町と直角に交わり、西側に延びる町でありやはり侍が住んでいた町でもある。
当然のことながら仙台城址に近いほど重臣が、そして遠ざかるにつれ、足軽や卒(小人)の住まいが形成されていた。

 幕末の地図で確認して頂きたい。赤は旧奥州街道、黄色が南小泉地区、×が現在地(上二枚の写真撮影地)が次に紹介する三角公園、が若林区役所(養種園跡地)、が法領塚古墳である。

ここが三角公園(道の真ん中に存在し、三角の形をした非常に珍しい広場)跡地である。

時代はもうすぐ三角公園がなくなろうとしていた昭和60年代である。私の記憶の中で、当時の三角公園の位置を思い出し写真に線を引いてみた。黄色が当時車道だった部分、オレンジが三角公園のところである。

そして三角公園から400メートルほど東の法領塚古墳に到着。これは北西側からのアングルである。古墳のある場所は聖ウルスラ学院の敷地の中である。
現在の古墳の多くは私有地となっているがこの古墳も例外ではなかった。

中には入れないので敷地の外からの取材となった。古墳が造られたのは7世紀前半とされる。

続いて南東側から撮影してみた。左側の小木の付け根には石室が存在する。

これは若林区役所六階から撮影した法領塚古墳の場所(矢印)である。
方角的には北東にあたる。

私は7世紀前半にタイムスリップを試みた。
私が描いた鳥瞰(鳥の目で見たという意味)図をご覧頂きたい。
左:法領塚古墳(円墳)、右:遠見塚古墳(前方後円墳)
この地は古来から洪積性で稲作に向く肥沃な土地であった。
従って古代から人が住み、農耕を営んでいた。
おそらく古墳時代におけるこの地の集落拡大は目を見張るものがあったことだろう。
 
遠見塚古墳の約300年後に作られた法領塚古墳には一体どんな人物が葬られていたのか?
墓の大きさから想像するに権力では遠見塚古墳に葬られた人物には及ばない者であったことは想像されるが、副葬品からは畿内と精通していたものが伺えるという。
これは極めて興味を引かれるところである。


この地区に関する極めて興味深い書物がある。
明治42年、真山青果執筆の小説「南小泉村」である。
(宝文堂「ページのなかのせんだい」より引用)
この挿絵からも現在住宅地である南小泉地区とはまったく異なり、明治40年代は水田広がる農村であったことが伺える。

私は最後に若林区役所を訪れた。
気温32度ほども酷暑のなか、若干の涼を感じた瞬間であった。
これは七郷堀といって広瀬川から引かれた灌漑用の水路である。
驚くべきことに、この水路が区役所の敷地の中を通っている。

気温もさることながら湿度がくせ者だった。
それにしても蒸し暑い;;
私は暑さから逃れるため、若林区役所の建物に入ることにした。

ここは区役所の最上階である6階のビューである。
ほぼ四方に渡り眺望が効いたので写真を掲載する。これは南東側のビューである。
広大な仙台平野が広がるが高い建物は見られない。

ほぼ真南のビューである。右側のサッシ桟のそばの建物は太白区の八本松マンションであり、アングルとしては古城、長町、名取地区がメインとなる。

これは南西側のビューである。右側の小高い丘は八木山、大年寺山と見られ各TV局のアンテナが顕著に見られる。またそのふもとには超高層である茂庭のマンションも確認できる。

窓がないため真西のビューは望めなかったが、このビューは北西側の仙台都心部の方角である。
この方角はほぼ真北にあたるビューである。東北新幹線が延びているのが確認できる。

最後に6階食堂で腹ごしらえをすることにする。

「毒をもって毒を制する。」という言葉がある。
暑い時には熱い食べ物を食し汗をかくに限る。。
私は迷わずチャーシュー麺(¥430)を注文した。
 
盆休みはあと八日あるが、後悔しないように一日たりとも無駄にせず有意義に過ごしたいものである。

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