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 五十回忌を迎えた父の生前を偲ぶ
 今なお大震災の津波の爪痕消えぬ宮城県石巻市、私は父の五十回忌の法要を営めないせめてもの罪滅ぼしに、墓参りに向うとともに、生前の父の面影を求めて早朝に仙台を出発した。
 
 この日の交通手段は思うところがあり、安易な直通の高速バスを使わずにJR仙石線を使うことにした。とは言え、この路線は津波の被害で全線復旧しておらず、今なお高城~矢本間を途中でJRバスで中継し利用者の便宜を図っている。

高城を出て3分ほど、のどかな田園地帯を見る限り震災の面影は全く感じられない。
この線路わきの傾いた電柱を見てほしい。この区間がいまだに復旧できていない所以である。

これは衝撃的な画像である。そして沼のように見えるところはもともと水田地帯であったが、震災の地盤陥没により海水が浸入したセクションである。

バスは40分ほどで矢本駅に到着。ここから先が現在不通となっている区間である。

ここから石巻まではディーゼル車に乗り換えての運行である。
最上川ライン(山形県の陸羽西線)の列車が仙石線をピンチヒッターとして走るものである。

土曜日の七時台とあって社内は混んでいなかった。

列車は八時過ぎに石巻に到着、列車の背後に見える建物は現石巻市役所である。
この貼られたテープを見て頂きたい。立町は石巻市の一番の目抜き通りであるが、残念なことに震災の大津波の被害で多くの商店が撤退していた。

駅から墓までは徒歩で向った。ここは以前法要をよく営んだ割烹店である。
足場がかかっており、今後修理復興されるものと見られた。

道路左側のブロックを見て頂きたい。これも大津波の被害である。
もともと住宅地だったこの辺りは今ではすっかり空き地と化してしまった。

痛んだ石仏を見るにつけ私は忍びない気持ちを感ぜずにはいられなかった…
実家の墓のある寺も津波の大きな痛手を受けており、非常に心が痛むところである。
私は墓の前で親父に話し掛けてみた。
 
「あれから半世紀が経ちましたね。」
「私もやっと見守られるほうから見守れるほうの立場になりました。どうか安心してお眠りください。」と。
父はそんな私を見て、ただただ笑うばかりだった…

墓参りが済んだ後、私は在りし日の親父を偲び、旧北上川河口を上流に向って歩いた。
そう言えば、あの日もきょうのような暑い日だった。

この辺りだったろうか…私が3~4才の時に父に連れられある魚網店に立ち寄ったのは?
私は数少ない親父の思い出の中でおぼろげに、断片的に記憶に残っていることを思い出してみた。
 
これはあくまでも私の憶測の域を出ないところである。
’’その魚網店はきっと親父の知り合いが居たのだろう…’’
’’30台後半の親父はビールを飲みながらバターピーナッツをつまみとして、知り合いの人となにか談笑していた…’’
 
ここで私は生まれて初めてバターピーナッツなるものを口にした。
塩味の効いた固い歯ごたえと風味は今でも私の中で「豆類の王様」としての位置を譲らないのもであり、食の持つ豊かさ、ありがたさを如実に私に教えるものでもあった。

そんな想像にふけっているうちに私はなにげなく魚網店の向う岸(※厳密には川に出来た中州)に目を移した。ここで私は一瞬自分の目を疑った…。
 
震災の地盤沈下の影響で今まで水面に没したかに思われていたこの島の下流側の岸がはっきりと確認でき、そこに釣り糸を垂れる人(画面中央よりやや右)を確認出来たのだ!
 
この水面の状態を見たのはおそらく二年ぶりになるだろう…
ふとその時、私の脳裏にある大きな期待が広がった!
「ひょっとしたら、きょうこそは…」
この自問に対しては後ほど続編にてお伝えすることにする。

更に私は川べりを川上へと向かい、内海橋のたもとに着いた。この場所(電柱の辺り)は昔丸光デパートがあった場所であり、祖母とのかけがえのない思い出が詰まった場所でもある。
 
大変残念なことだが、長い年月はこの辺りの情景を大幅に変えており、丸光デパートの面影は全く残っていなかった。
※生前の祖母と私との思いを綴った記事「自作小説祖父からのメッセージ」へのリンクhttp://blogs.yahoo.co.jp/bgytw146/23139406.html

10時過ぎに実家のあった横町(現千石町)に着き、私は亡き父に黙祷を捧げた。

若くして亡くなった親父、あまりにも幼くて支えになれなかった私…
しかし親父の真摯で堂々としたる生きざまはこれからも私の心の中にずっとずっと色褪せることなく生き続けることだろう。
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