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明治初期、コレラ流行による死者の弔い
 去る5月12日、私は仙台市北部郊外の小高い丘、水の森地区を訪ねた。
現在はすっかり住宅地に囲まれていまったが、昔は山の中であり人影もまばらな寂しい地域だった。
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立て札から水の森公園という文字が読みとれる。
この道路は今は舗装されているが昔は山道だった。

この公園入口の脇にはご覧のような児童館が建っているが昔はスケート場があったのだ。
私にとって、小学4年生から6年生までの冬の楽しみはこのスケート場で友達と一緒に滑ることだった。
そして滑り終わるときまってスケート場の食堂を訪れ熱い味噌おでんに舌鼓を打ったものである。
 すっかり面影のなくなってしまった感があり、今はせめて頭の中で往時を偲ぶだけである。
先ほどの道路を先に進むと砂利敷きの旧道が残っていた。
この道路は旧道でもあり水の森湖畔公園に繋がる道でもある。

この石碑はコレラ塚と読む。
気の弱い私は小学生の時にこういう石碑は苦手であり、怖いものでもあった。
 
※以下W医療科学より抜粋。
 
 コレラ碑(叢塚):仙台市北部の台地に,緑豊かな「水の森公園」がある。水の森市民センターを起点とする探索路の左側の草むらに,端然とした一基の碑があり,さらに西北に100メートルほど行った分岐部の角に自然石の断碑がある。前者には「叢塚」と大きく読み取れ,後者には「焼場供養塔」の文字が記されており、これらはともに明治15年のコレラの悲劇を伝えるものである。叢塚の脇には以下のような説明文がある。
 
 この地は明治15年夏に大流行したコレラにより死んだ人達の死体焼場跡である。死体数276とあり、残骨と灰で築かれた塚の上に立てられたのがこの供養碑とのことである。

あれは小学校4年のある日曜日だった。
私は自転車に乗り、同級生と連れだって好奇心を満たすため、この辺鄙な山道を訪れたことがあった。
五人の腕白な少年はいろんな噂話をしあいながらこのコレラ塚の前を通りかかった。
だが単なる怖いもの見たさの心境でこの塚の建てられた真意を推し量るにはあまりにも幼く、石碑が建てられた真相の把握には全く到らなかった。

私が次に向ったのは泉区七北田にある仙台藩刑場跡である。
下の道は県道22号(旧国道4号)、手前のなだらかな坂道が旧奥州街道である。

目指す刑場跡に地下づくと道の勾配はご覧のように更になだらかになってきた。

隣はマンション、この狭い土地が仙台藩刑場跡である。

6000人前後とも言われる罪人の中には冤罪の者も含まれていたと言われる。

処刑者は墓に葬られることも許されずこの地で死んでいったとされる。

これは首切り地蔵と言われるものである。罪人と言えどもその霊を弔った証である。

この小さな地蔵は比較的新しいもののようである。

刑場跡の周りにはご覧のようなマンションも立ち並び、大きく背景を変えていた。
幼いころこういった場所が苦手だった私だが、きょう訪れた刑場跡の印象はあきらかに以前のものと違っていた。
この日私は処刑された罪人の冥福を祈るとともに、墓に葬ることも許されなかった罪人を弔う昔人の優しさに触れた思いがした。
安らかにこの地に眠られんことを。

 次回はこの日に訪れた付近の小高い丘、八乙女肩掛山のレポートをお伝えする。
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