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 アルビノーニ - 弦楽とオルガンのためのアダージョ ト短調 カラヤン ベルリンフィル 
リンク曲について
私にとっての東京生活は暗く、そして長かった。その心境を曲に託せばこの曲が最も近い。今でこそ客観的に振り返ることの出来る東京生活だが、当時は口では言い表せないほど辛いものがあった。読者の皆様に於かれては、それを含みの上でこの曲を聴いて頂きたい。

再掲「私にとっての東京生活」
今からお話するのは2005年の秋から2006年の秋にかけて、私が単身赴任で経験したことである。実はこのエッセイを書いたのは2013年8月のことだった。あれから5年、古いブロ友様の中には既にご覧になられたかたもおありと察しているが、全くの再掲ではあまりにも能がないので、全文を見直し、加筆修正に及んだことを最初にお断りしておく。

私にとっての東京生活を例えるなら「魔境」という表現になる。その基盤には愛する家族と離れ離れになったという寂寥感があった。だが、他人はそれに気付く由もない。他の社員に務まる単身赴任生活が何故横町には務まらないのか?少なくとも会社の上層部の考えはそうだった。これは会社のせいだと言っているのではなく、自分の精神面の弱さが露呈したものと自覚している。

家族との別離だけでも辛かったが、東京本社に在籍しながらも勤務の多くは他の地方(九州、八王子…)への出張が多かった。今なら休日に武蔵野丘陵の散策など、単身赴任生活を謳歌する余裕があるのだろうが、この時はとてもそんな感情を持つ余裕すらなかった。ほんの一年だけの東京転勤だったが、今語るならば精神的な不調に悩まされ、何事に於いても自分のことで精一杯であり、周囲を見渡す視線すらままならなかったのである。

九州の佐賀で欝を発症した私は3週間ほど休んだ後、病状を伏せて出社に及んだ。これ以上休めば首になる。(これに関しては自分の妄想を認める)会社を首になれば家族と離散することになる…自分は常にそのような焦燥感に追われていた。一日のサークルで言うなら早朝から午前中にかけてが不安のピークだった。朝は午前2時には目が覚め頭の中が不安でいっぱいになる。何とか眠らなければと思っている間に3時半過ぎになると京浜国道のトラックの轟音が私が眠りにつくのを妨げた。そして不安に駆られながら朝を迎えた。またテンションの低さは食欲をも奪った。私は無理やり朝食を口に詰め込むと、いつもと同じように重い足取りで会社に出社した。社員の誰かれとなく、顔を合わせるのが何よりも辛かった。

あのころは四六時中、全てのことをマイナーに考えてしまっていた。それは会社を辞めることばかりではない。自分が死んだらどうなるのか…死後の家族はどうなるのか…そんなつまらないことばかりを考えていた。自分とまったく性格の違った者が心の中に入り込み、巣食ってしまったような状態である。このマイナーな他人は食欲のみならず私が本来持っていたはずの自信やテンションをも全て奪い取ってしまっていた。但し外観だけは健常者とさほど変わりない。このことが第三者に大きな誤解を招き私は負の無限回廊から抜け出せないでいた。
 
周囲の目は至って冷ややかだった。「あいつはやる気があるのか?あいつは能力がないのか?あなたには覇気がない…。」これは陰口だけでなく、面と向かっても言われたことがある。だが、往時の私はその言葉を言い返す気力すら湧かなかったのである。休みの日はどこに行くあてもなく近所の買い物以外は家で暗く沈んで、まるで冬眠する獣のように何をするでもなく、じっとして暮らした。生ける屍そのものであった。生き甲斐などは何もなかった。ただただ将来への不安しか考えられず、長い隧道の出口は全く見えないままだった。しいて言うならばたまに帰省して家族の顔を見るのだけが唯一の心の救いだった。
 
そんな東京時代の私に待っていたのは二つの仕事であった。最初の現場は八王子であった。この現場はマンションから遠かったのでビジネスホテルに泊まり、同僚とともに毎日車で仕事場に通った。私の仕事は建設現場の管理であり人(発注者や下請け)と接する仕事なので、テンションが上がらないのには閉口した。今考えれば何気ないことだが、当時の自分には非常に高いハードルだったのである。八王子の次の現場は足立区の綾瀬だった。これは比較的に近かったので電車通勤が出来たが、何の楽しみもなく魂を抜かれた亡者の如く、勤務を重ねた。いつまでこの苦痛は続くのか?一日が過ぎるのがとても遅く感じられた。

首都圏の満員電車と人ごみ、カラスのフンで汚れた歩道にはついに慣れず仕舞だった。気分を変えて一回だけ秋葉原にショッピングに行ってみたが、テンションが全く上がらなかった。今改めて思い起こせば、この数カ月の期間は私の人生の最たる低迷期という位置づけになるのかも知れない。おそらくこの時以前や以後の私を知らず、この数カ月で初めて私と出会った多くの人物の殆どは「横町利郎という人物は目に輝きがなく、消極的で覇気のない人間」という印象を与えたのではないだろうか。
 
冬眠期間とも言える東京生活にも少しだけましな思い出があった。それは二番目の現場で駅から降りて住宅地を通って行く途中で見つけた大衆食堂で偶然出会った長崎ちゃんぽんである。この長崎ちゃんぽんは本場ものとは違うもののとろ味があり、もやしがたっぷり入っていて美味かった。このちゃんぽんはなにをやっても生ける屍のようだった私にささやかな楽しみをもたらしたが、これとて二回だけ食したきりだった。東京時代のいい思い出はこのちゃんぽんと仙台に帰る前に先輩から送別会を兼ねた食事に招待され上海ガニを御馳走になったくらいである。情けないことだがそれくらいしか思い出せないのである。

今思い起こせば、ただじっと耐えるだけの東京生活であった。結局私はこの長い隧道を脱出するのに、この後2年近くを要した。正直言って東京時代の低迷は封印して黒く塗ってしまいたいくらいである。だが、今となって考えればこのような曲折、迂回も貴重な経験であり、自分にとっては低迷期と解釈せずに、戦場に於ける武士が次の矢を射るために弦を引くが如く、充電に要した時期と解釈することにしている。『最悪の東京生活があったからこそ、その後の浮上があった…』自分は東京生活で経験した最悪の屈辱をけして忘れないことだろう。

横町挨拶
最近の私はなるべく愚痴を吐かないようにしていますが、12年前の東京生活を語るならばそれも致し方ない。今の自分にはそんな開き直りもございます。残念なのは当時はパワハラという言葉すらなかったことです。今なら「病状が安定するまで休め」となったのでしょうが、当時は能力がない、やる気がないの一言で片付けられました。但しこれはけして自分に対して悪いことにばかり終始しなかった。それは自分の心の中にインターバルを経て、ルサンチマンという復讐心が芽生えたからです。

見くびられたからには正当な手段をもって見くびった者どもを見返す。これは藩政時代に行われた仇討ちとも酷似しています。そんな心境に至った自分は、NHK「その時歴史が動いた」の赤穂浪士の番組をYOU TUBEで何度も見ました。再雇用を蹴り無事に定年を果たし、他の企業に身を転じ、自分が社会人として立派に通用することを示す。自分にとっての仇討ちはそうしたステップを経て、遂に成し遂げられました。今思い起こすのはこの仇討ちは危険な綱渡りであり、歯車が一つでも狂っていたならば失敗し、逆に返り討ちに遭っていた可能性があったということです。自分で言うのも何ですが、これは奇跡に近いのかも知れません。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

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