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先祖代々の山林を切り開き大規模団地を造成し、昨今の繁栄を見る

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 50年前否、100年前否、200年前…誰でも自分の住んでいた場所が昔どうなっていたか気になるだろう。そこにはどんな人々が住み、或いはどんな人々が往来し、道路はどういうふうに通っていたのか?…
 
 そんな昔を探る手掛りとなる非常に興味深い文献(平成中山風土記)を私は最近手に入れた。きょうはその文献に基づき、自分の住んでいる地域をくまなく探索し何らかの発見を得て感動に繋げたかった
 
 まずはこの写真を見て欲しい。戦前に撮影されたさもない田舎の風景である。(屋敷の下の横に伸びる白い線は梅田川の堰堤と思われる。)

これは本日ほぼ同じ場所から撮影したショットである。60年以上の歳月が同じ場所をこうも変えてしまうのか、驚くばかりである。※赤で囲んだ家が旧地主の子孫宅である。
(下の地図の赤×印から撮影)

 この地主の家を西側(向って左側)から覗いてみよう。屋敷の中には社殿のような建物(赤い屋根)があり、その右側には古い離れがニ棟並んで建っている。或いは一番上の写真に写っている建物はこの二棟なのかも知れない。(下の地図の赤○印から撮影)

現在の地図で確認して頂こう。赤の斜線の部分が地主宅、黄色が今回探索した旧道、中山道(根白石街道)、緑が荒巻本沢胴谷に繋がる旧道である。

これは同じ場所の昭和3年の地図である。(赤の○印が地主宅)
肌色が中山道、緑が荒巻本沢銅谷に繋がる旧道である。
ここで二つの地図の違いによく注目してほしい。この当時は現在のような本通りがなく、地主の土地の北西側は全くの山林であることがわかる。

この写真は地主宅の南側に面する通りで撮影したが荒巻本沢一丁目と表示されている。荒巻本沢はかなり古い地名であるが、どうやら地主の代々住んでしたところを一丁目と定めたことが伺える。

これは赤○印から青矢印方向に撮影したアングルである。昭和3年の地図、屋敷林より、この道路(シェルパの止まっている道路)も旧道(緑色の延長)であると私は判断した。

この道路(私道)を通ると間もなく梅田川にさしかかる。護岸は昔から何度にも渡って行われてきたことだろうが右岸の石垣は現代の土木技術から推定し、相当古いものであることがわかる。
また川底に残る堰にも着目して欲しい。この川の水を灌漑用水にも使おうとした跡が見られるのは非常に興味深いことである。

前々回紹介した村上山保存林の急な坂(枯松坂)を通り平坦な道に駆け上がった。
ここに来ると住居表示は中山二丁目となる。
道の向こうが枯松坂である

ここから北に行ってみることにする。
村上山自然林から約400メートル、ここには自然林も残っており、思わず足取りも軽くなった瞬間であった。

再び南側を振り返ってみると村上山が小さく見えていた。

ここから西のほうを見てみよう。バックに広がるのは国見峠の山林である。

そして更に100メートルほど北に進むと。南から二番目の自然林へ突入した。
ここには昨夜の冷え込みによる残雪が見られた。

この旧道を走って気付いたのはほとんどが山の尾根を走っていることである。
ところでシェルパの止まっている左のところに脇道らしきものがあることにお気づきだろうか?

脇道に入ると山神様が立っていた。(山神は春夏秋は穀物収穫、冬場は狩りを司る神として古くから人々の信仰を集めてきたものである。)
ここで私は時空を越えて昔人に成り切り、江戸時代にトリップを試みた。
 
仙臺に向う渡世人がこの山神様のある場所に差し掛かったのは昼前だった。
遠くの山に残雪はあるものの長く寒い冬を越して来た彼にとってこの日差しはありがたかった。
彼は喉を潤すために三度傘を外してぬかるみに足を取られながらも谷へと降りて行った。
青みを帯びた笹の葉が春風にそよぎ、空にはゆうゆうととんびが舞っていた。
彼にはこだわりがあった。
「武士はくわねどつまようじ」…どんなに空腹でも人に悟られまい。浪人であっても武士の心はけして失うまい。空を舞うとんびの如く鷹揚に、そして孤高に生きるのだ…
 

※下の地図で黄色の×印が山神様のある場所になります。

この自然林を越えると再び舗装路となった。

次回は中山二丁目からうどう沼までの探索を紹介する。お楽しみに!
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