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歴史小説「我がルーツと大河北上」

三つ子の魂百までも
父方祖父について、今になって思えば軍人あがり昔気質頑固な性格となろうが、幼い私にはその片鱗すら感じさせなかった。菊の花と酒をこよなく愛した祖父に溺愛された私は、祖父のそのような本質を見通せなかったのである。祖父は時としてあぐらをかいて机に向かうことがあった。恐らく遠方に住む叔父や北海道に嫁いだ叔母に手紙を書く事があったのだろう。祖父の机の引き出しは私の好奇心を満たす格好の宝であった。引き出しの中に仕舞っている祖父の煙管を引っ掻き回し火をつけないで吸って香りを味わったりした。私がこの引き出しの中のものをどんなに掻き乱そうが、裸足で庭を縦横無尽に走り回ったあげく、その泥足で座敷に上がろうが、祖父はけして私を叱ろうとしなかった。

祖父は毎晩かかさず晩酌し、愛用の座イスに座って夜遅くまで酒を嗜んでいた。私は気を利かしたつもりで、祖父がくつろげるように踏み台や段ボールなどで肘かけや背もたれの”しかけ”を用意してやった。自分では祖父に喜んでもらえると思ったのである。しかし次の日の朝になって祖父の座っている辺りを見渡すと、いつの間にかそれらの”しかけ”はきれいに片づけられているのであった。幼い私には片づけられた理由など知る由がなかった。そんなことが何度繰り返されたのかわからないが、祖父から叱られたことはたったの一度もなかった。

意外な祖父の側面
子供心に温厚そのものに見えた祖父だが、一度だけ意外性を垣間見た時があった。あれは私が小学校一年のことだった。いつものように朝7時に住吉タワー(注釈:石巻河口の住吉神社の傍に建つタワー。撤去されて今はない。)から浜辺の歌のメロディーが流れた。その後間もなく晴れ渡った秋空に数発の花火が上がった。運動着のまま登校した私は30分後には君が代行進曲の演奏が鳴り響く中、クラスメイトとともに運動会の開会式に臨み、やや緊張した面持ちで校庭に並んでいた。その時、私は校庭の片隅の雲梯の前に祖父がいるのを発見した。昔人にしては背が高く、下駄を履き背筋をピンと伸ばし丸い眼鏡をかけていたので祖父はすぐにわかった。

※私が在籍した石巻市立住吉小学校(米国軍医ジョージ・バトラー氏1951年撮影)藩政時代は米蔵があった。


祖父は腕を組んだまま温かい眼差しを私のほうに向けていた運動会が始まると、私は見るのに夢中祖父の存在はしばらく忘れていた。やがて自分の徒競走の番が来た。私は心臓が破裂しそうなほどの鼓動を押さえ切れず、思わず天を仰いた。それは走るのが苦手だった為に他ならない。徒競走の結果は7位だった。私は速く走れる友達を羨望の目で見るとともに負けることが悔しくて仕方がなかった。殊のほか、5、6年生の上級生は私にとって大人に見えた。「俺も早く大きくなって速く走りたい…」運動会が終わると、私は祖父に連れられて帰路に着いた。そ帰り道で祖父からこう言われた利郎、きょう運動会を応援しているときに利郎のうなじを小突く奴がいたからわしもそいつを小突いて成敗してやったぞ。」

私は一瞬何のことだかさっぱりわからなかったが、どうやらこの「仕返し行為」は、祖父が私を誰かと勘違いした挙句に取った行為のようだった。大人が子供をど突くこと自体、許されることでないし、けして笑い事で済まされないが、今思えば祖父の一徹な孫思いの気持ちが、高じて露呈した勘違いの行動であった。今となって往時の祖父の心境を推し量る術もないが、この時祖父には、武士で言えば仇討のような一途な考えが脳裏を横切ったのかも知れない。祖父にはそのような熱血的な一面もあったが、概していつも鷹揚な態度をもって家族を見守っていた。私はそんな祖父を今でも深く敬愛している。

尊敬して止まないのは祖母に対しても同じである。祖母は如何にも明治の女性という印象で、けして人前で出しゃばることがなかった。これが一家の平穏に繋がっていたのは疑う余地のないところである。あれは3歳か4歳のころだろうか、祖母は物心ついたばかりの私を丸光デパート(石巻唯一の百貨店)に連れて行き、ソフトクリームをご馳走した。またコーンシチューなどの洋食もよくご馳走になった。そして何よりも常に笑顔を絶やしたことがなかった。私は祖父のみでなく祖母にも溺愛されたのである。しかしながら、祖父母から受けたこのような深い恩愛に答えようと考えた時、既に二人はこの世に居なかったのである。

我がルーツを偲んで
自分のルーツを知りたいという願望は、祖父母から受けた深い恩愛に対してのせめてもの恩返しである。こうした願望は自分の中で四十代頃から芽生えていた。但し、仕事をこなさねばならない現役時代には、時間的な余裕など全くと言っていいほどなかった。そんなもどかしい思いをずっと抱いていた自分にようやくその好機が到来した。長い間勤め上げた企業を定年退職をしたのである。これを機に2017年2月に郷里石巻に出向き、祖父方の原戸籍を調べた。石巻市役所で原戸籍を取得し、ようやく待望の祖父方ルーツをを調べ、六代前までの名前と生年月日が判明したのである。私は原戸籍と、これまで寄せられた親戚からの情報を基に家系図を作成した。親戚からの情報は菩提寺の過去帳を根拠としたものだが、原戸籍と過去帳を駆使しても知り得ることには限界がありすぐに壁に突き当たった。

そんな折に新たな活路をもたらしたのが、父方の従兄弟であるA氏から寄せられた或る情報だった。A氏によれば、先祖代々の言い伝えで一族のルーツは北上川流域にあるという。その昔岩手県にから北上川に沿って南下し、江戸時代初期には、仙台藩士・川村孫兵衛重吉の下で北上川改修工事に携わったと言うのである。私はこの先祖代々の言葉にこそ、自分のルーツを解く鍵があると考え、大河・北上川を河口からたどることを思いついた。

5月初めに私が最初に訪れたのは北上川河口である。あれは小学校4年のことだった。夏休みに私は祖父母に連れられ、北上川河口から就航する定期船で牡鹿半島先端の金華山に向かったのである。自分の小学校時代である昭和三十年代の頃の石巻には、栄華を誇ったかつての港町の面影が強く残っていた。北上川河口には大きな漁船も係留していた。住吉小学校時代の思い出としては、図工の時間に二度ほど河口の漁船のスケッチに行った記憶がある。持参したスケッチブックに大きな船を描きながら、私は遠洋漁業に携わる海の男に対して羨望さえ感じたものだった。

しかしながら昭和49年、新たな漁港が長浜(現石巻市魚町)方面に完成したのをきっかけに、河口付近の様相は斜陽に転じた。そして2011年には、それに追い討ちをかけるかのような大震災があった。今の北上川河口は震災当時からはだいぶ復興してきたものの、五十数年前の栄華を知る私には寂しい限りである。それでもこの日、希望を抱かせるような話題があった。それは牡鹿半島の島々と石巻を結ぶ船便の定期航路・網地島ラインの就航である。大きな目玉であるカーフェリー「マーメイド」には漫画チックな装飾が施され、観光趣向の色合いを強く感じた。

網地島ライン石巻発着所の目と鼻の先では橋のピア工事が行われている。2016年に石巻市は70億の工費をかけて湊地区と門脇地区を最短ルートで結ぶ鎮守大橋(全長505メートル)の建設に踏み切った。この新しい橋は2018年中に完成するとのことだが、この橋は石巻漁港と三陸自動車道を最短で繋ぐもので、これからの石巻の経済振興に大きな貢献を果たすものとして期待している。

我がルーツ大川家
私の祖父方のルーツである大川家は古くは現岩手県南部に住み葛西家の下級武士として代々仕えたが、戦国の世の末を向かえ、既に勢力の衰え始めた葛西に見切りをつけていた。この頃の一族の生活は貧しく、やませ(北日本の太平洋側で春から夏にかけ冷気に見舞われる現象。低い雲や霧がかかり農作物に深刻な影響をもたらす)による土地柄と深刻な飢饉の影響で衣食住もままならず、家族や親戚を失うのは珍しいことでなかった。

この時代の足軽と下級武士の境界は曖昧で、いざとなって戦の際は槍や刀を持つものの、普段は食うために百姓となる。大川家も普段は鋤や鍬を持ちながら、いざとなったら戦場で功を成すことを考えていた。この頃の身分制度は士農工商と言われるが、ヒエラルキーが支配する武士集団の下で、士と農との両面を併せ持つ者が数多く存在していたのである。彼らと百姓の違いは一概に言って年貢の有無となるが、年貢がない分兵役に縛られることになる。水呑み百姓から身を起こした豊臣秀吉もそのような境遇の人物であった。

葛西氏は奥州の他の大名同様に、古くは坂東武者の出で、下総国に領地を持つ豊島氏を起原としていた。葛西清元とその三男である清重は奥州藤原征伐において源頼朝の家臣として功を成した。奥州葛西氏はその功によって現岩手県南部、沿岸、宮城県北部に広い領地を得た名門であったが、隣国の雄伊達氏の台頭もあり、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の奥州仕置により滅亡に至った。

この時秀吉は有無を言わさず伊達政宗に大崎や葛西の一揆制圧と残党狩りを命じた。翌年の天正19年(1591年)、政宗は佐沼城に篭城する二千数百の者を撫で斬りにするなどした後、家臣の泉田重光に命じ、大崎一揆の首謀者らの残党を須江山(現石巻市須江細田)に集めた。「降参した者に対しては領地は小さくなるものの名は残す。太閤秀吉様には軽い裁定を裁定をお願いする由…」葛西旧家臣らはそんな甘い言葉を信じ、帰ろうとしたその時、林の影に潜んでいた伊達武者の一群が一斉に襲い掛かった。弓、鉄砲等で武装した伊達の精鋭軍団に不意打ちをくらった葛西残党らはひとたまりもなかった。屈強な伊達武者軍団の中には後に政宗から遣欧使節団を任される支倉常長も居た。こうして従者を含め、数百人にも及ぶ大殺戮が行われた。

主君葛西への見限りがもう少し遅れたら、大川家のその後の生き残りはなかったのかも知れない。大川家は戦国末期の激動に弄ばれながら、細々と血筋を繋いできた。そんな大川家に嫡男儀左衛門が生まれたのは1598年(慶長3年)、葛西氏が滅んで8年目のことであった。葛西を離れた大川一族だが、このままでは食べていけない。度重なる飢饉がこれに追い討ちを掛け、その日その日を生きるのが精一杯だった。逆風に見舞われながらも、雑草の如く強く生きるには二君に仕えるのも止むを得ず。こうして家督を継いだ儀左衛門は、かつては敵対した伊達家の庇護の下に入ろうと考えた。伊達の領地は奥州仕置で不毛な土地(旧葛西領地)に移ってしまったが、大川家が生き伸びるにはそれしか選択肢がなかったのである。

伊達政宗の野望と川村孫兵衛の召抱え
儀左衛門が伊達への服属を決めたころ、伊達家は大きな転換期を迎えていた。もはや戦が強いというのは過去の夢物語であり、これからは経済力の時代であった。「武力で百万石が手に入らぬなら、不毛の土地を切り拓き稲作をもってこれを手に入れてみせよう!」伊達政宗の抱いた構想は極めて壮大なものだった。政宗は旧葛西の広大な領地に目をつけた。ここには大河・北上川が流れている。

この北上川こそが自領に富をもたらす川であると考えたのである。河口に石巻という葛西氏ゆかりの湊があったが、往時の石巻湊は大型船が入港出来ない小規模なものであった。それと中流域(現登米地方)では大雨が降る度に洪水を繰り返していた。その周囲には未開ではあるものの、肥沃な野谷地(遊水地)が広がっていたのである。

葛西氏滅亡後新領地となった登米地方の河川改修に最初の着手したのは政宗の縁戚に当たる白石宗直(後に登米伊達家初代当主となる)であった。この工事は1605年(慶長10年)から約7年間に渡って行われ、北上川と迫川を登米付近で合流させた。これによってそれまでの野谷地(現登米市周辺)が農耕可能な土地へと生まれ変わった。それでもこの普請は単なる序章に過ぎなかった。中流から下流に更に広がる野谷地を稲作に適した地とするには優秀な土木技術を持った者が不可欠だった。

その後の北上川改修工事に関わったのは旧毛利藩士の川村孫兵衛重吉である。政宗は関ヶ原の戦いで浪人となった川村孫兵衛の治山治水に関する高い技術力に目をつけた。川村孫兵衛は才気に溢れた人物だったがそれだけではなかった。孫兵衛は他人の痛みのわかる徳の厚い人物でもあった。孫兵衛がこの地で名を成した理由としてその高い技術力もさることながら、高い人徳も挙げねばならない。

※石巻市日和山公園の川村孫兵衛重吉像


伊達政宗には、かつて敵対した武将でも自分の役に立つのなら躊躇なく家臣として召し抱えるという指向があったが、人の資質を見抜く確かな眼力も備えていたのである。「この男なら困難を極める普請も任せられる」政宗はよそ者を抱える際の扱いも巧みであった。召し抱えた武将が再び変心に至らぬよう、十分な恩賞を与えたのである。関ヶ原の戦いの後、孫兵衛が伊達に来た際も政宗は名取郡の早股に五百石を与えたが、孫兵衛はこれを丁重に辞退し、代わりに百石と未開の荒地を賜ることを願い出た。これは旧家臣のやっかみを案じてのものだった。新たに召し抱えた家臣がこうした処遇を辞退するのはけして珍しいことではない。武家社会では新参者への妬みほど恐ろしいものはない。苦労人である彼には、古参の家臣の心がよく見えていたのである。

困難を極めた改修工事
川村孫兵衛がこの普請に取り掛かろうとしていた頃藩の財政難が続いていた。藩から捻出される資金が大幅に不足していたのである。資金が不足しては人足も集められない。この難問を打開に至らしめたのが、仙台藩特有の制度だった。この制度は新しい領地で家臣や陪臣に知行地を与えるときに、耕地と野谷地を併せて支給し、一定の期間(5年~7年ほど)は年貢を取らず、期限を迎えたところで検地をし、初めに定めた知行高を超えて新田となった際は、超過分を藩直轄地とするという画期的なものだった。百姓に頼らずに労働力を家中で確保する。こうした采配が北上川改修事業にも反映されたのである。

それでも資金は大幅に不足していた。孫兵衛は私財を投じ、第一線で人足らと寝起きを共にしてこの大事業に挑んだ。孫兵衛はこの大事業に取り掛かる際、工事の安全祈願と成就を期して日高見神社(北上川の水神が祀られている神社)から宮司を呼び、神事を行うとともに、これから従者となる者と固めの杯を杯を交わした。「皆の者、この度は厳しい普請となろうが、必ずしや殿の御意向に沿い、この川を奥州一の大河としてみせようぞ!」「おー!」儀左衛門は熱き思いに駆られ頭領である孫兵衛の杯を受けた。

孫兵衛は新たに水路を広げる策として箱堀工法(敢えて総堀とせずに矩形の桝を連ねて掘削し、増水期に乗じて一気に水を流す工法)を採用した。人力の他は牛馬だけが頼りだった往時のことである。水分をたっぷりと含んだ粘土質の土を掘削するのは困難を極めた。時に川というものは生き物の如く変化する。箱堀が完了する前の中途半端な状態で、洪水時に遭遇すればこれまでの苦労が徒労に終わりかねない。そんな時は命懸けの対応を求められた。それでも常に第一線で寝食をともにする孫兵衛は人足から信頼を集めるまでになった。「川村様のためなら…」鋤や天秤を担いだ人足の多くはこうした思いに駆られ、毎日血と汗と泥にまみれながら気の遠くなるような労働を重ねた。

※箱堀工法推測図(農文協発行「江戸時代 人づくり風土記4 宮城」の32ページより引用)


体力、気力のない者にこの荒仕事はとても務まらず、多くの者が音を上げ脱落していった。「儀左衛門よ、おぬしなかなか精が出るのう…」時に孫兵衛42歳、彼は22歳年下の儀左衛門に気さくに話しかけた。儀左衛門はそんな親分に優しさを感じた。「川村様、北上川の普請は伊達家の恩為にもござる」儀左衛門は頭領にそう返した。川村孫兵衛による一連の北上川改修工事は和渕上流付近の三川合流のほか、柳津~飯野川間を経て、1623年(元和3年)からは河口の鹿又下流域にも施された。背に腹は変えられない。孫兵衛は河口の石巻を守るために、川を鹿又下流を過ぎてから北上山地の南端に当たる牧山まで西進させ、その後再び東に180度引き返すように蛇行させた。これによって袋状につき出した地形(袋谷地地区・現石巻市水明町)が形成された。

※工事に使った道具の一部(農文協発行「江戸時代 人づくり風土記4 宮城」の32ページより引用)


こうして北上川は安定した水量を持つ水運に適した川へと変わった。普請の途中であったが、1620年(元和6年)には石巻湊から江戸に向けて初めての藩の米が出荷された。この時の米はたった500石であったが、その後の仙台藩の運命を変える出荷でもあった。その後も石巻付近での工事は続けられ、普請が完成に至った1626年(寛永3年)の石巻湊には大型船も出入りできるものとなった。

水運流通の一大拠点となった往時の石巻には、その後南部藩や八戸藩、一関藩の各藩の米などが集まり、右岸、左岸には米蔵の他、材木蔵、肴蔵、塩蔵などが軒を連ねていた。儀左衛門亡き後の大川家は石巻を離れることなく、分家をしていった。やがて明治維新を迎え近代となり、陸運が水運にとって物流の中心になるまで、石巻の繁栄は続いたが、大川家は伊達家と川村孫兵衛に深い恩義を感じながら大街道周辺に土着したのである。

ここに、北上川の河口の模様を如実に表した文を紹介したい。それは昭和六年八月に石巻を訪れた高村光太郎は紀行文「三陸廻り」の中の一節である。「石巻西内海橋に近い福島屋旅館の欄干の前を大北上川が鷹揚に流れている。仲の瀬島(中瀬)を中洲にしていかにも古風な湾曲を見せて落ち着き払った、今引潮の強い波をあげているこの川を誰が人工の川と思わう。自然の流系追波川の水を横から鹿又でもぎ取り第四期沖積層の幾キロメートル貫いて殆ど天工に等しいこの川口の港を作り上げた昔の奴はすさまじい。」どうやら、昭和初期の北上川河口は、石巻に初めて足を運んだ高村光太郎を驚嘆させるようなオーラを放っていたのだろう。この時の高村の賛嘆こそ、江戸時代に大改修工事に携わった自分のルーツに是非聞かせたい言葉である。

米蔵のあった住吉地区
再び話を現代に戻そう。門脇地区で、新生石巻の手応えを感じた私は、次の目的地である住吉地区(門脇から一キロほど上流)に向かった。住吉地区は自分の生家である横町(現:千石町)とは目と鼻の先にある町である。江戸時代、北上川を下ってきた平田舟の積み荷は石巻で千石船に積み替えられ江戸へと向かった。江戸中期の港町石巻には湊、本町、住吉の三箇所に藩の米蔵があり、湊御蔵は18棟で計5万俵、本町御蔵は9棟で計2万俵、住吉御蔵は18棟で計6万5千俵で合計13万5千俵の米を収納できたとされる。その住吉御蔵のあった場所は自分が過去に在籍した石巻市立住吉小学校である。住吉小学校の東の端(川沿い)には「仙台藩米蔵跡」の石碑が建っている。

住吉御蔵は1717年(享保2年)に建てられ、蔵の傍には船着場があった。上流から平田船で運ばれてきた米俵が陸揚げされ、当時は昼夜を問わず人足の稼働があったという。船着場はこの他にも数箇所存在し、蔵で保管された米などが千石船に積み替えられ江戸に出荷されて行った。千石船は一度に2千500俵程度の米の積載に対して、平田船には一度に250俵~450俵ほど積載が可能であった。

幕末期の住吉町にはかつて旧相馬藩邸や毛利邸(戊辰戦争の時、幕府海軍副総裁の榎本武揚、新選組の副長土方歳三、仙台藩額兵隊隊長の星恂太郎らが立ち寄った建物、毛利家は代々住吉御蔵の蔵守を勤めた家)もあったが、今は取り壊され、それらを偲ぶ縁さえ失せてしまった。私は住吉小学校に通ったのは一年~三年までのたった三年間(その後仙台に移り住む)だったが、今思えば自分の郷里・石巻に対する深い愛情を育む大きな要因となったのがこの三年間であった。この頃紅顔の少年だった自分はただ漫然と朝夕、旧毛利邸の前を登下校に及んでいたが、学友と北上川河畔で遊んだ思い出は今でもはっきりと脳裏に刻まれている。

あれは二年生の頃だった。やんちゃ坊主だった私は放課後に友達と北上川に木っ端の俄仕立ての船を浮かべ、これに石を当てて川下に進ませる遊びをよくやった。巻石(石巻という地名の語源となったとされる石)のある住吉公園まで誰の船が一番早く到達するかというシンプルなルールだった。この遊びは、なかなかスリリングでエキサイティングな遊びだったが、川への投石を見た近所の住民の通報で間もなく禁じられた遊びとなってしまった。

五十数年前の出来事だが、今になって通報したかたの気持ちを思えば、例え少量の石であろうが、母なる大河の川底が浅くなるのは居た堪れないほどのものだったことだろう。日高見神社に宿る信仰など、古くからこの川には神が宿るとされてきた。北上川は港町石巻に繁栄をもたらした川であり、宝である。然らば例え子供であっても、神聖な川に石を投じるのは許せないことだったのである。

その頃、上流の袋谷地地区から登校していた同級生が居た。ちなみに袋谷地という地名は今の住居表示にはなく、水明(北、南)という地名に変わっている。この地区は袋状に川に突き出た地形であり、且つ一面に水田が広がる地域だった為、住吉小学校時代この地区に足を運ぶ機会は殆どなかった。しかしながら、この地区に住む児童と喧嘩したこともあり、懐かしい思いに駆られ、次の目的地として足を運ぶことにした。

袋谷地地区
住吉地区に別れを告げた私は車で約5分を要し、袋谷地地区(現町名は石巻市水明町)に向かった。袋谷地地区は今は住宅地になっているが、藩政期には穀改番所が設けられ、港湾や通行する船に対しての監視がされた。少年時代の私が知っている袋谷地は一面に水田の広がる長閑な土地であった。袋谷地という呼び名の由来はさほど想像に難くない。川に対して土地が袋状に突出しているのである。地区の東側には曹洞宗長林寺がある。長林寺の山門の傍にこの地区の謂れを示す石碑が建っている。

江戸時代の藩米積み下ろしの監視や市内の警備、諸興行取締に当たった仙台藩御足軽三十五名によって開拓された所。「袋」は水辺の湾曲部の意、「谷地」は草立ちの湿地帯の意味(語源はアイヌ語ヤチ)安政四年(1857)十月祝田における久米幸太郎敵討ちの際、幸太郎の宿舎を警備した梅沢寛左衛門、梅沢万之助、大坂徳蔵、大坂作右衛門、栗原彦衛門、後藤長十郎、桜内善吉、千田八十郎、広田文右衛門などの姓名が新発田藩文書久米家復言一仠に云々

袋谷地は川村孫兵衛が普請を行った直後は単なる湿地だったが、幕末近くになって美田に生まれ変わった。その陰には仙台藩の足軽三十五名による開墾があった。「祝田(現石巻市渡波地区)における久米幸太郎敵討ちの際」という一文が気になった。どうやら新発田藩士の久米幸太郎が祝田で仇を討った際に、彼の泊まった宿を警護した足軽がこの地区に居たらしい。

※現在の袋谷地地区は水田もなくなり住宅地となった(2018年5月横町撮影)



「きてみてけらいん!いしのまき」によると、越後新発田藩中小姓久米弥五兵衛が文化14年(1817年)、同藩の藩士宅で馬廻役滝沢休右衛門に殺害され、その長男・久米孝太郎(1811年~1891年)が成人してから約30年の間全国を探し回り、僧形に扮し「黙昭」と名乗っていた滝沢を安政4年旧10月9日(1857年11月25日)、祝田浜で打ち果たしたとされる。石巻市渡波梨木畑の旧金花山道脇には「胴空地蔵」と呼ばれる安政6年(1859)4月建立の滝沢休右衛門の供養碑が物悲しく建っているこの実際にあったこの仇討ちは菊池寛の小説「仇討ち三態」や「恩讐の彼方に」等のヒントにもなっているが、郷土史家などの資料を見ると、どうやらこの仇討ちには横死した久米弥五兵衛個人の仇討ちではなく、新発田藩の意地と名誉が絡んでいるようである。
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横町挨拶
歴史ものを創作する際は、短編を複数書き上げ、それを繋いでゆく作業が求められます。その間に様々な文献で下調べしますが、その際に気をつけなければいけないのは、思考が一つに固まらないよう配慮することです。思い込むと固まり一方向に進み易くなるので注意が必要です。それと自分の郷里やルーツを書くとき、どうしても対象となるものを贔屓目に見てしまう。これは或る程度は止むを得ないのですが、限度(客観視)もございます。また一度で作品は仕上がらない(何度も構成を見直す必要あり)ということもございます。

とにかく根気の要る仕事で、モチベーションが全てと言っても過言でございません。自分としてはもちろん今回で仕上がったとは思っていませんので、見直しを掛けて行きたいと考えています。「我がルーツと大河北上」の文芸誌への投稿は今回で二回目になりますが、今後北上川の中流域や上流域を書くかどうかはモチベーション次第と考えています。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。


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コメント

No title

横町利郎様へ
ようやく出来上がったようですね。今ざっと読ませて頂きました。ご祖父、ご祖母様の良い影響があるのだなと感じます。この優しさと逞しさを兼ね備えたお二人のお孫様である横町様です。ご祖父、ご祖母様から見ると。それこそ目の中に入れても痛く無いほど可愛いかったのでしょうね。そしてその愛する気持ちが横町様に繋がった。この難航不落の河を制した男たちは。その先祖の方たちです。この難工事を可能にしたのは。金では無い。人の優しさとこの事業は成し遂げねばならないという信念のもとに。これに関わった人々の気持ちがこの工事を可能にしたと私は思います。ナイスです。有難うございます。

URL | 不あがり ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

> 不あがりさん
トップバッターを切って頂きありがとうございます。今回の作品は前回の支倉常長と異なり、史実と私小説をドッキングさせたようなもので、このところ「生みの苦しみ」を感じていました。それがルーツ大川家をどう位置づけるかということです。昨日新たな資料に目を通し、ルーツもそうして知行をもらったのでは?と考えました。

そうでも考えないと明治維新後の士族授産が辻褄が合わなくなるからです。この普請、残念ながら記録が殆ど残ってないので文献を基にして想像を巡らしました。箱堀などの工法に際し、徐々にイメージが沸いて参りました。

とにかくここまで書けたことに胸を撫で下ろしています。後は郷土研究会(石巻千石船の会)や登米市の学芸委員のかたにもお会いし、情報を交わしたいと考えています。本日も格別なる追い風を頂戴しました。コメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

こんにちは 横町さん

更新お疲れ様です。

流れるように書かれたお話。
実際には筆が止まったこともあるでしょうし、試行錯誤された部分もあるでしょう。
しかし、それを感じさせない、一気にすらすらと書きあげられたもののように読めました。

祖父母さまの愛に育まれたことで、ご自身のルーツを探る旅に出られた横町さん。
その愛の恩返し、祖父母さまも目を細めていらっしゃると思います。

ひとまず、お疲れさまでした。

URL | ヤスミン ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

読ませていただきました。

祖父母様にたいする尊敬の念から発して
ご自分のルーツを丹念に調べられ
作品となさっていますね。
それが縦糸とするならば 横糸に伊達政宗 支倉常長のことも織り込まれています。

今まで地道に現場に出向かれて写真を撮られたり 関係者にお会いになったり
その事が作品に深みを加えているようです。
これからも気づきがあれば手直しされていかれるかもしれませんが
すでに完成形のようにも読めます。お疲れ様です。

URL | つや姫日記 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

> ヤスミンさん
ここ半月ほど、作品のことがずっと気になっていました。以前より増して「会話」を用いましたが、これはYOU TUBEで様々なシーンを見て徐々に蓄積してきたことです。先人の作品を見ても会話が少ないと物足りなさを感じる。これが随筆と小説の間に存在する分厚い壁と受け止めております。

今後は更に侍や町人の言葉を頭に叩き込み、読者に臨場感をもってもらえるように努力して参ります。祖父母から受けた恩愛の延長に義左衛門が居る。そう思えば自ずとモチベーションは増します。

おはからいにより、本日も格別なるお励ましを頂戴しました。コメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

> つや姫日記さん
支倉常長は実父が切腹を命じられ、本来なら追放処分となっていたという負い目があり、政宗のこうした戦(実は朝鮮にも渡ったとされます)や制圧などに多用されたのだと思います。逆に言えばカムバックのチャンスを与えられたとも解釈できます。このあたりは政宗の巧みな人使いと言わざるを得ません。

本作品で一番気をつけたのは参考文献を少数としないということです。少数だとイメージが固定され、さほど想像が沸いて来ないのです。きっかけになったのは児童書にも目を通すことです。これは場合によって歴史書よりも有効な場合がございます。即ち、こちらのほうが却って執筆へのヒントが潜んででいることがあるのです。それと図鑑も有効です。

以前取材に訪れ、登米市の学芸員さんとは顔馴染みで同じ石巻生まれゆえ、再会を愉しみにしています。その時はこの作品を渡したいと思っています。本日も厚誼を頂戴しました。コメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

今晩は

自分のルーツを書く時どうしても贔屓目に見る当然だと思います
それを 何度も客観的に見つめ直す 成る程です
ナイス☆

URL | 62まき ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

> 62まきさん
歴史を考察する際大切なことは一つ一つの史実を複数、それもなるべく多く積み重ねて、それらから大きな流れを掴むことです。昨日ルーツを士族としたのはその大きな流れを考慮してのことでした。

会話はYOU TUBEを見て侍言葉を研究した成果もあり、以前の作品よりは使えた気が致します。これを足場として更なる作品に挑みたい所存です。本日もお励ましを頂戴しました。コメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

霧が晴れるように、少しずつ、明らかになってゆくご先祖様のありようですね…。。。
素晴らしい作品が上梓されることをお祈りしております…。。。

URL | boubou ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

こんばんは!

貴重な資料により今迄のご苦労でブログが繋がりルーツと北上川の二部からなる歴史小説が出来上がりとても
素晴らしいです。

子供の頃のエピソードも交え暖かい祖父母様の愛情を改めて深く感じ一気に読ませて頂きました。資料探しから何度も難関を乗り越え頑張られ本当にお疲れ様でした。
そしてお喜び申し上げます。今夜こそ美酒に酔いゆっくり休まれる事でしょう。

URL | suisyou ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

こんばんは。
祖父母様から愛され、幼心にもその思いや存在の大きさを感じられた事がとても伝わってきました。
そこからルーツを知りたいと言う強い思いも感じられます。回想を交えながら歴史の流れに沿い、調べ上げられ素晴らしい作品になりましたね。
気持ちが暖まりました。ありがとうございます。

URL | joeyrock ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

こんばんは~
軍人上がりの祖父様でもお孫さんには
目に入れても痛くなかったのですね
横町様も可愛かったのでしょうねhttps://s.yimg.jp/images/mail/emoji/15/ew_icon_s1.gif">
投稿作品無事に仕上がりおめでとうございます。

URL | ともたん ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

> boubouさん
創作家は書いてなんぼゆえ、ただひたすらに執筆に取り組みたいと考えています。その過程においては、世俗から見放されることもあるかも知れませんが、それも覚悟の上にございます。

本日も厚誼を頂戴しました。コメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

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> suisyouさん
有難いお言葉を頂戴し痛み入っております。今は余韻に浸るべくもなく視点は、本作品の見直し、或いは次の作品に行っております。
作品は練っていくらの世界ゆえ、カットしたばかりの原石であってはならないと思っています。今回は磨き行程の大切さを改めて認識した気が致します。

これを糧にして、新たな創作に視野を展開して参りたい所存です。本日も格別なるお励ましを頂戴しました。コメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

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> joeyrockさん
今回の作品を書いて感じるのは、小説と名乗るにはまだまだ人物の会話が足らないということです。随筆と小説の間にそそり立つ壁は大変険しいですが、これからもその難関に挑んで行きたいと考えています。

YOU TUBEで時代もの歴史ものを数多く見る…これは昔人の気持ちや言葉を知る上で大きな追い風になると確信しています。これからもモチベーションを落とさぬよう精進して参ります。

本日も格別なる追い風を頂戴しました。コメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

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> ともたんさん
我が祖父を偲べば厳しさと優しさが同居する人物であったと認識しております。但し幼い私に向けるのは常に優しさだけで、厳しさについては「俺の背中を見て自分で考えろ」というスタンスでした。これはなかなか出来ることではないと考えていますが、自分も是非祖父のように在りたいと捉えています。

本日もお志を頂戴しました。コメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

こんばんは、

実は昨日は我が田舎町の秋祭りでした、
朝から大雨でしたが長年続いている祭りには中止が無いのです、
一応、地元役員なので法被を着て土砂降りの雨での行事でした
昨日は酒の勢いで無事に終わりましたが、今日は少し熱っぽいのです、
横町さんの記事を読みながら途中で止めました、
申し訳ありませんが今夜はナイス!ポチで失礼します、

URL | 雲MARU ID:79D/WHSg[ 編集 ]

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> 雲MARUさん
貴兄の事情確と承りました。

感想は落ち着いてからお聞かせ願いたい所存です。本日も厚誼を頂戴しました。コメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

祖父母との思いでで始まり、ルーツをたどる経緯
実際に調査と現地へ赴き確認など用意周到な
歴史小説ですね。
今後も調査を重ねて事実が分かればよいですね。

URL | ことじ ID:79D/WHSg[ 編集 ]

No title

> ことじさん
激励ありがとうございます。祖父方の親戚縁者は相当数が津波で被災し、それ以前の菩提寺過去帳の焼失などで、これ以上のルーツの情報は見込めない現状ですが、牡鹿原入植者の43名の実名が石巻史に載っています。従ってそれを手掛かりにする方法があります。
この作品がその足掛かり(郷土史家などに読んで頂き新たな情報がもたらされる)になればと思っています。

本日も厚誼を頂戴しました。コメント、ナイスを頂きありがとうございます。

URL | 横町利郎 ID:79D/WHSg[ 編集 ]

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