fc2ブログ
  志賀直哉著、中編小説「和解」
肉親との和解、私にも経験があるが、これは他人との和解とは明らかに異なり、はっきりと一線を隔するものである。



主人公の近代的自我が封建的家族制度の中で葛藤する姿を描いた中編小説「和解」。この小説を読みながら私は今は亡き叔父との和解を思い出していた。作家、志賀直哉は複数の事情(渡良瀬川沿岸の鉱毒事件、学生時代に反対された女中との結婚問題)で18歳のころから父と対立、確執を生んだまま平行線をたどっていた。
 
そんな折に直哉は自らの居住地、京都を訪ねようとした父の面会を拒否していた。ちょうどその時、生まれて二カ月にも満たない女の赤子(志賀直哉にとっての長女)を彼は亡くしていた。
そして長時間電車に揺られたことが原因で長女が死んだのも、孫を介して和解しようとした父のせいだと思いこみ、更に死んだ長女の亡きがらの埋葬地を麻布でなく赤坂に運ぶように指示された折にも、父の対応を恨んだ。(確執が更なる確執を生んでいた。)



しかし長年続いた父子の確執にようやくピリオドが打たれる時が来た。思いつめた直哉が麻布の父を訪ねたのは赤子の死後数カ月を経てからだった。
 
書斎に通された直哉は意を決して父にこう語った。「お父さんと私の関係をこのまま続けて行くことは無意味だと思うんです。…それはお父さんには随分お気の毒なことをしていたと思います。あることでは私は悪いことをしたと思います。」
 
直哉のそんな言葉に対して父はこう語った。「実は俺も段々年はとってくるし、貴様とこれまでのような関係を続けて行くことは実に苦しかったのだ。それは腹から貴様を憎いと思ったこともある。しかし先年貴様が家を出ると言いだして、再三言っても聞かない。俺も実に当惑した。仕方なく承知はしたものの、俺のほうから貴様を出そうという考えは少しもなかったのだ。それから今日までのことも…」こんなことを言ってるうちに父は泣き出した。
 
私(志賀直哉)も泣き出した。叔父も泣き出した。そして父の後妻(志賀にとっての義母)もこう言って泣いた。「まささん(直哉のこと)ありがとう。」直哉の妹たちは四人で入ってきて皆誰ともつかず一つにかたまってそろってお辞儀をした。父と直哉の和解を望まぬものは誰として居なかった。
 
作品の最後に叔父が志賀にあてた一通の手紙(中国の仏教書『碧巖録』の一節を借りて今回の和解を如実に表したもの)の一文がある。
 
「先日の和解は全く時節因縁と深く感じ申候。父上もこの都度は大丈夫だろうと話された。君の手紙でも一時的の感じでないと云う事もあるし、拙者もその場で左様感じた。
           
南北東西帰去来 夜深同看千巖雪:引用『碧巖録』という古詩の興を感ずる云々。
 
訳:東西南北に奔走していたが、故郷に帰りたくなった。夜遅く君とともに岩場に積もった雪を見る。

読後感想
志賀直哉は小説の神様と言われるがこの作品は私小説的色合いが強い作品である。若かりしころ、実業家である父直温と対立した直哉、それは志賀家の莫大な資産と社会的地位に反するものであった。それが父の怒りをかったのは当然かも知れない。また暗夜行路にも登場する女中への恋心、求婚もまったく父には理解されず、父と息子の決定的な確執に発展する。
 
そんな確執の中にあり、生後二カ月に満たない赤子を亡くした直哉。この場面は涙無くしては読めない。容態が突然変わった赤子の幼い命を懸命に救おうとする壮絶なまでの努力は彼の筆力により、ある意味で目をそむけたくなるほどリアルにそして哀しく文中に描かれている。そして赤子の亡きがらを埋葬する墓地についても彼は父と意見が食い違い、更なる確執を生んだ。
 
この作品を読んでいくうちに私自身が30代半ばで叔父と和解した場面を思い出した。私が育った家も古くからの封建的家族制度の名残がわずかながら残っていた。
 
私と叔父が和解に至った時、そばにいた90歳になる祖母がぼろぼろと泣いた。つられて叔父も私も泣いた。その翌年の平成3年10月、祖母は91歳の生涯を閉じた。これは生前に祖母に返せた私のたった一つの恩返しでもある。
 
志賀の叔父からの手紙に書かれた最後の碧巖録の一節は全くをもって今の私の心境そのものである。
関連記事

トラックバック

トラックバック URL
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)