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  地獄を見て描いた絵とは?
芥川 龍之介1892年(明治25年)3月1日 - 1927年(昭和2年 )7月24日)
代表作羅生門にも見られるように、彼の作品の特徴はあえて人間の根底に潜む醜さ、しさを著し、その反面人間社会の道徳とは何なのか?を訴えるものが多いことである。

          以下、小説「地獄変」より抜粋
 
 堀川の大殿様のやうな方は、これまではもとより、後の世には恐らく二人とはいらつしやいますまい。噂に聞きますと、あの方の御誕生になる前には、大威徳明王の御姿が御母君の夢枕にお立ちになつたとか申す事でございますが、兎に角御生れつきから、並々の人間とは御違ひになっていたようでございます
 
         …中略…
 
 さやうな次第でございますから、大殿様御一代の間には、後々までも語り草になりますやうな事が、随分沢山にございました。…その数多い御逸事の中でも、今では御家の重宝になつて居ります地獄変の屏風の由来程、恐ろしい話はございますまい
 
彼の描いた原稿を良く見て頂きたい。彼の文章は何度も何度も見直されて訂正されている。
すぐれた小説にはこの見直す行程が不可欠である
 
 
                
 
                     小説「地獄変」粗筋
 堀川の殿様お抱えの絵師良秀は当代一の腕前との評判をとりながら下品で横柄で高慢で皆から嫌われていた。
 その良秀の娘は堀川の屋敷で殿様に小女房(側室)として可愛がられていた。殿様は良秀に「地獄変」の屏風の制作を命じ、良秀はその完成のため実際に牛車の炎上する様子を見せてほしいと殿様に頼み込む。
 良秀の頼みを聞いた殿様のとった行動はいかに?そして予想だにしない凄惨な結末とは?意外な結末は作品を読んでのお楽しみである。

 実はこの牛車とともに炎に包まれて生きたまま焼かれて死んだ人間がいた。果たしてその人間とは?
 
 愛が憎しみに変わるとき、人間はこうも残酷になれるのか?芥川龍之介が人間のエゴイズム、醜さの根底をあばく作品、「地獄変」
 
                  読後感想
 
 「身の毛のよだつ話、これはけして並みの話ではない…」芥川独特の読者を引き寄せる文術と文体を一目見た時、私はこの小説を一気に読破しようという気になった。私自身地獄絵は小学一年で親父が死んだときに檀家であるお寺で見たことがある。思い起こすとその絵はこんな感じ(下の写真参照)だったと思う。
 
  悪いことをしたらこの絵のような地獄に行くことになる。「なんと恐ろしいことなんだろう…」太宰治の小説に地獄絵を見た彼の幼少の時の様子が出てくるが、私も周囲からそう諭されて太宰のように泣き出したい気持ちになったのだこの時のことは、親父が死んだ時のことと重なり今でも暗いイメージしか残っていない。
 
 この作品を読んで同じ芥川龍之介作の「杜子春」のストーリーを思い起こさざるを得なかった。
それは主人公の大切な肉親(地獄変では娘、杜子春では母)が殺されそうになったときの主人公の反応が好対照である点である。両作品を読み終えた時に私は芥川からこう問われた思いがした。
「君なら良秀を選ぶかい?それとも杜子春かい?」
そこで凡人の私はこう答えるだろう。
「杜子春です。」…
良秀を選べる人を私はある意味で尊敬する。
芸術完成のために全てを捨てた彼に改めて敬意を表する
 
 果たしてこの小説の焦点はどこにあるのか?奇なる良秀の生涯なのか?それとも大殿様のエゴイズムなのか?読み手によってそれは様々だろう。しいて私は後者のほうにウェイトがあと感じた。
 
 最後の一節で横川の僧都様の言った言葉が印象に残った。
『如何に一芸一能に秀いでようが、人として五常(仁・義・礼・智・信)をわきまえねば地獄に堕ちる外ない。』
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