fc2ブログ
大川家の帰農と大街道入植
(※大川家は横町利郎の祖父方ルーツである)
戊辰戦争に破れ、石高を半分以下とされた我が仙台藩にとって、明治は試練の時期と言える。大川家もその激動の中で喘いでいた。冬になると掘立て小屋には容赦なく隙間風が吹き込んでくる。食糧事情も劣悪で皆が生きるのに必至だった。そんな時に県による士族授産が行われることになった。1880(明治13年)門脇村の牡鹿原に(現宮城県石巻市大街道地区)に開墾場を開設、初代場長には旧仙台藩士の細谷十太夫直英(戊辰戦争では鴉組の隊長として活躍する)が就任することになった。

※旧仙台藩士・細谷十太夫直英(1845[一説には1839]~1907)石巻市史第四巻87ページより引用

開墾地は北上運河周辺の官有地一帯である。祖父方のルーツ大川家は迷うことなくこの事業に入植者の一部となり、一家は毎日泥まみれとなって働いた。しかしながら、当初48名の入植者からスタートした開拓事業けして順調とは言えず、苛酷な労務から得られた収穫は惨憺たるもので、当初は脱落者が続出しこの地に土着したのは入植者の半数にも満たない20戸ほどだった。この時、私の高祖父の恵治(1835~1900)と曽祖父である権兵衛(1863~1935)がこの事業に関わった。

※私の祖父方家・大川家系図(約1・5倍まで拡大可能)

石巻市史第四巻から、牡鹿原入植の趣旨を抜粋する。
1、牡鹿原開墾に於いては、明治13年(1880年)に歴史的な第一鍬を下ろすものとする。
2、新墾(初期の開墾と解釈)は明治14年より同17年までの4箇年に於いて成業するものとする。
3、開墾地は専ら、稲田、桑園及び芦栗の植栽を目的とする。
4、入場を許すべき士族は身体強壮にして労力に耐え、兼ねて農業篤志の者に限る。
5、入場者には独立移住の期まで、食費を給し且つ、一日五銭の手当金を支給する。
6、精勤に及んだ者には特に賞与を給する。
7、入場者には家屋、農具の貸与を行う。
8、開墾に供する農地の貸与期間は15年とし、その後に貸渡料を徴収する。
9、入植者が家族を呼び寄せる際、独立家屋の建造資金を支給し、別に扶助料(移住を開始した月から三ヶ月、一日一名食費・三厘三毛)を給付する。
10、成功を収めた場合、各一戸につき、田一町部、畑五反、宅地一反を支給し、家具や農具の貸付を行う。

※大街道開墾地絵図(明治初期の釜地区の絵図で1874年以前に描かれたと思われる)宮城県公文書館HPより引用

入植者には希望に満ちた士族授産事業だったが、実際は私財を投入しないととても生計が成り立たないほどの厳しい状況だった。特に穀物(さとうきび等)や野菜、果物(梨等)の収穫は入植者にとって全くの期待外れとなり、その多くが離散したという。もう一つの問題は入植者の働きぶりだった。携わった者の多くが士族出身ということで、殆どの者が農作業に不慣れなこととがこの事業に困難を来たしたのは否めないところだが、それに加えて精勤に及ぶものとそうでない者との差が大きく、これが土地分配時の不公平感を抱かせる原因となっていった。こうした不協和音がもとになり、明治15年(1882年)の騒動に発展していったのである。

大街道騒擾事件の勃発、その時我がルーツは?
騒動の発端は土地の割譲(開拓が進んだ部分)を巡って起きた。明治15年の12月9日、場長・細谷十太夫不在のまま、平等配分を唱える横尾芳成を中心とする平等配分派と業績(入植者各自の働きぶりが詳しく記録されている書面があった)に応じた分配を主張する業績応報派が対立し、相談会の場で決議を行ったところ、平等配分派が票数で業績応報派を上回り、土地の平等分割が決まった。これに対してこれまで一所懸命に開拓に精を出してきた者(13名)は憤懣やるかたないものを感じつつもその日は引き下がった。騒動が勃発したのは翌々日の12月11日である。13名の業績応報派は同輩の故人・山田信雄の供養と称し、鰐山の墓地を訪れやけ酒を喰らった。

勢いついた13名は酩酊に至った上で、横尾らの平等配分派の居宅に押し入り、暴力を奮い、器物を破損させる等の狼藉を働いたのである。事件を聞いた細谷十太夫が病気を押して現地に駆けつけ、暴徒を取り押さえるべく、石巻警察署の署員派遣を要請し身柄を拘束した。当時の責任者であった細谷直英の心労は筆舌に尽くし難いものを抱く。この後、被害者は医師の診断書を提出し加害者を告訴するに至った。

資料の乏しい中、この騒動に我がルーツである大川一族が具体的にどう関わったのか、或いは関わらなかったのかを調べる術もないが、その後の大街道で広い耕地を手に入れたことを考えると、恐らくは暴力沙汰を起こした業績応報派とは一線を画する立場だったのだろう。細谷場長は13人が馬耕の習得者であった点に考慮し彼らを擁護し、心情を考慮した上で野蒜築港(明治初期に石巻湾に面する桃生郡を中心に行なわれた港湾建造事業の人足の職を与えた。傍から見ても傷害、物損事件を起こした割りに比較的穏便な措置が取られたようである。

この事件は精勤に及んだ者の暴走行為が生んだ悲劇と言える。暴力沙汰を起こした者を擁護するつもりは毛頭ないが、しいて彼らの心情を推し量るのならば、働き者、正直者が馬鹿を見ることが許せなかったのだろう。人の僻み妬みほど怖いものはないが、大街道開拓にはこのような大きな紆余曲折があったのである。

こうしたいきさつもあり、開拓を始めて僅か三年後の1883年(明治16年)には入植者の数は、約半数の二十戸ほどに減った。我が高祖父・恵治と曽祖父・権兵衛は死に者狂いで生業に励み、その二十戸の中に入った。これによって大川家はこの地に広い農地を有するに至った。そうして家督である権兵衛の次男として1891年(明治24年)に生まれたのが私の祖父・清治郎である。

※我が祖父・清治郎(1891~1966)

大街道地区はこうした挫折を経て、入植者たちの努力によって肥沃な農地へと変わり、梨、麦、豆などの栽培に次々に成功した。入植者の生活に安定と繁栄がもたらされたのは大正時代に入ってからのことである。我がルーツはここで広大な農地を得て、大街道周辺に根付いていった。

※開拓が進む石巻大街道地区(石巻市史第四巻90ページより引用)

最後に細谷十太夫のその後について述べたい。十太夫は騒擾事件の責任を取り場長を辞任し、その後の1882年(明治15年)に開拓使権少主典に任じられ、部下を率いて北海道に赴き開拓に従事する。更に1894年の日清戦争では陸軍少尉となり、中国に渡って千人隊長として活躍した。帰国後は警視庁小隊長となるがその後は身を転じて仙台城下の竜雲院の住職となり、明治40年(1907年)5月6日、63歳で波乱の生涯を閉じた。

横町挨拶
祖父方ルーツである大川家は、過去において何度も家存亡の危機に瀕しながら、都度不撓不屈の精神を発揮し不死鳥のように立ち直ってきました。今改めて我が祖父の力強い生き方を回想する時、自分の体内にも剛毅なる血が脈々と流れているのを自覚します。東北太平洋沖地震から8年目を迎えた今、郷里石巻の復興が願って止みません。

自分は祖父・清治郎からとても返せないほどの恩愛を受けて育ちました。祖父は朴訥ながら芯を持った気丈な人物でした。祖父のどんな時にも動じない姿勢を見たのは自分にとっての何よりも幸せなことでした。自分は祖父・清治郎の精神にあやかり、「ネバーギブアップ」を心の奥底に深く刻み石巻の再興をこれからもずっと見守って行きたいと考えています。

2009年12月9日発表拙記事祖父からのメッセージ参照

自分は2017年に石巻の郷土同好会である石巻千石船の会に入会しました。これによって志を同じくする先賢との横の繋がりが出来、様々な情報も入って参ります。自分は祖父から受けた返しきれないほどの恩愛を、郷土研究と執筆活動に尽くすことで、少しでも返したいと思っています。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

関連記事

トラックバック

トラックバック URL
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)