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現在、歴史小説を『我がルーツと大河北上』を執筆中の私だが、数日前に良著との出遭いがあった。その本は石巻市教育委員会発行の「石巻の歴史」である。これは以前石巻の郷土史家の千葉賢一氏が書いたものを教育委員会が精査して書き直したもので、石巻市の中学校の教材ともなっている本である。本日はこの本の見解に基にストーリーを展開して行きたいと考えている。

本日は開墾されたばかりの牡鹿原(現:石巻市大街道)に、祖父方ルーツが根付いた頃にスポットを当てて話を進めて行きたい。

※開墾事業を始めたばかりの牡鹿原地区(時期的には1880年代と思われる)

牡鹿原開拓事業は戊辰戦争で敗北を帰し、石を半分以下にされた仙台藩が士族授産の為に行った開墾事業である。この時藩からは8千人にも及ぶ武士が新天地を求めて北海道に渡っている。牡鹿原以外の開墾地としては三居沢や愛子も挙げられるが、我がルーツである大川家が関わったのは牡鹿原であった。

これは1951年(昭和26年)に米国軍医のジョージ・バトラー氏によって撮影された大曲地区(牡鹿原と隣接する地域)であるが、往時の牡鹿原にもこれとさほど違わぬ長閑なロケーションが広がっていたものと察している。

私が昨年の2月に作成した大川家の家系図である。牡鹿原の開拓が始まったのは1880年なので、この時の曽祖父Gは満で16~17歳、高祖父Tに至っては44~45歳となる。

※下記の文は石巻市史第四巻からの引用である。
明治維新で石高が半分以下となった仙台藩であるが、士族授産という名目の下、1880年(明治13年)、牡鹿原(今の大街道)には43名の旧仙台藩士(数名の平民を含む)が入植した。

この入植は県の事業で、米谷村の大川何某(身分は平民)という人物の名前が出てくる。この人物と祖父方の苗字と合致するものの、我が大川家と縁戚関係にあるかどうかは全くの不明である。以下、牡鹿原入植の趣旨を抜粋する。

1、牡鹿原開墾に於いては、明治13年(1880年)に歴史的な第一鍬を下ろすものとする。
2、新墾(初期の開墾と解釈)は明治14年より同17年までの4箇年に於いて成業するものとする。
3、開墾地は専ら、稲田、桑園及び芦栗の植栽を目的とする。
4、入場を許すべき士族は身体強壮にして労力に耐え、兼ねて農業篤志の者に限る。
5、入場者には独立移住の期まで、食費を給し且つ、一日五銭の手当金を支給する。
6、精勤に及んだ者には特に賞与を給する。
7、入場者には家屋、農具の貸与を行う。
8、開墾に供する農地の貸与期間は15年とし、その後に貸渡料を徴収する。
9、入植者が家族を呼び寄せる際、独立家屋の建造資金を支給し、別に扶助料(移住を開始した月から三ヶ月、一日一名食費・三厘三毛)を給付する。
10、成功を収めた場合、各一戸につき、田一町部、畑五反、宅地一反を支給し、家具や農具の貸付を行う。

このような条件であったが、実際は私財を投入しないと、とても生計が成り立たないほどの状況だったという。特に穀物(さとうきび等)や野菜、果物(梨等)の収穫は入植者にとって大きく期待外れとなり、その多くが失望し離散したという。そのような経緯もあり、開拓を始めて僅か三年後の1883年(明治16年)には入植者の数は、約半数の二十戸ほどに減った。我がルーツは死に者狂いで生業に励み、その二十戸の中に入った。これによって大川家はこの地に広い農地を有するに至った。そうして曽祖父Gの次男として1890年(明治23年)に生まれたのが私の祖父Sである。本書では、大正時代に入ってようやく入植者の生活に安定と繁栄がもたらされたとしている。
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横町挨拶
難産に難産を経て、ようやく幕末から明治にかけての我がルーツが見えて参りました。曽祖父Gは大地主ゆえ、士族授産を目的とした大街道開拓で、我がルーツは一旗も二旗も挙げたようです。或いは、この時代に大川家は全盛を迎えたと言っていいのかも知れません。但し43人の初期入植者のうち、誰が我が大川家と繋がっているのかがわかりません。このあたりは今後の課題と捉えています。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

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