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 東北関東太平洋沖地震から16日目の3月27日(日)身の回りがようやく落ち着いてきた私は大津波で未曾有の被害を受けた郷里石巻へとシェルパを走らせた。目的は連絡の取れない親戚の捜索と連絡は取れたが物資不足に悩むバイク仲間のside7さんの救援(食糧支援)である。
 
 仙台からの往路、利府街道を通った。泉区から利府町にかけてはコンビニを始めとした多くの店が依然閉まっていることが気になる。またGSの前の道路には給油待ちの長蛇の列ができている。鳴瀬町に差し掛かったときに状況が一変した。

ヘドロに覆われた道、津波に冠水した田畑、スクラップと化した車がいたるところに散乱している。

海からこんなに離れたところまで津波にやられたのか。遺体捜索の自衛隊がいたるところに来ている。仙台と石巻を結ぶ仙石線(せんせきせん)もいまだにこの通り津波の土砂に覆われたままである。

鳴瀬町奥松島地区のこの目を覆うような惨状はまだまだ序の口だった。私は石巻市内に入ると墓がある門脇に向ったが、道路の両側に民家の残骸が山のように積まれている。

このまま1キロほど走れば墓のある寺に着くはずだ…しかしそんな私を躊躇させ、引き返らせたのは道路に散乱した無数の釘だった。『釘を踏んでパンクしたら動けなくなる…』やむを得ず私は高台の日和山に駆け上がって石巻の南浜~門脇地区を見渡した。そこで私が目にしたのは地獄絵のような惨状だった。

自分の生まれ育った石巻の町がこんな瓦礫の町になるなんて…私は自分の目を疑った。

寺の多い門脇(かどのわき)地区であるが、このように墓が津波をかぶっていないのはごく一部である。(私の家の墓を含む大半は津波をかぶっている。)

ここは昨年春に石巻焼きそばを食する会でバイク仲間が集った場所で石巻を代表する名所の一つである。
あの時、和気あいあいで仲間と触れ合ったこの場所が今は一転して犠牲者への献花が置かれ、下界の市街地の惨状をひと際哀しいものにしていた。

小学3年の図工の時間にスケッチした北上川河口の船着き場が…小学校2年の私に初めてラーメンの味を教えてくれた大華楼(内海橋の付け根にあった老舗ラーメン店)がこの橋の右側にあったのだが…

私にとってかけがえのない思い出の場所の多くが跡かたもなく無くなっていた。

北上川の中州として拓けた仲瀬(なかぜ)だが、上流のほうはもうなにも残っていなかった。

いつまでも悲嘆にくれてはいられない。『家の墓の確認よりも生存者の救援が先決であ
る。』私はそう考え、親戚の家(2軒)に向った。町はヘドロの匂いがひどく、そのヘドロが乾いて埃となって舞い上がっていた。スコップを持ってヘドロの片づけに追われる市民をあちこちで見かけた。

 親戚の家は1軒目は津波で2階建ての建物の1階が全て水に浸かり、かろうじて2階に駆け上がり難を逃れたとのことだった。2軒目は1階部分が床上浸水していたが家族は全員無事だった。
 
 次にバイク仲間のside7さんのところに行った。side7さんは地震発生時海沿いの仕事場にいたが津波情報を聞いて山側にルートをとって避難して無事であった。(ただし仕事場はすっかり津波でやられたということであった。)被災した奥さんの実家の家族を受け入れて大変そうだったが、彼は辛い顔を一つも見せずに極めて明るくこう語った。「落ち着いたら震災を癒すオフ会をやりましょう。」
 
 今日現在、バイク仲間では陸前高田のShuuさんが避難所にいるとの情報が入ったが、依然として本人と連絡が取れていないのが気がかりである。ともあれ今日は全員無事が確認できてなによりだった。それぞれ片付けや食糧、水の確保に追われて大変だが一日も早く落ち着きを取り戻し、立ち直っててほしい。そんなことを切に祈り、私は帰路に着いた。

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