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 ここは私のブログに最近掲載した作家島尾敏雄の少年時代の思い出を取り上げた『いなかぶり』の舞台になった場所(福島県南相馬市小高区村上海岸)である。
 
 小説の舞台になって多少の脚光は浴びたことと思われるが、「いなかぶり」の文字通り、田舎特有のゆったりと時間が流れる雰囲気がこの海岸の素晴らしさでもある。この平和な海岸が…
※撮影:2011年3月11日早朝

 島尾少年は夏休みになると村上集落と南側の角部内(ツノボウチ)集落の間に存在する村上海岸を祖母とともに海水浴のために毎日のように訪れていた。小高市街につながるこの道を彼は祖母に遅れてついて帰路に着くのが日課だった。
小川の魚、水生昆虫、草花は好奇心旺盛な彼の格好の興味の的であった。
 
※福島県小高町村上海岸の「いなかぶり」へのリンクhttp://blogs.yahoo.co.jp/bgytw146/28048571.html
あれからおよそ85年が経過した…
※写真:島尾と祖母が海水浴の後によく訪れた村上集落

※写真:85年ほど前、島尾少年と祖母が海水浴の後に歩いたと思われるのどかな道、この場所も8時間半後には大津波に襲われることになる。

※この道は島尾が祖母の家から村上海岸に向かう時に歩いたあたりである。
 幼少時の私にも経験があるが海水浴を楽しみにしていた島尾少年はさぞかしわくわくしてここを祖母と歩いたことであろう。

これは地震発生の朝、出勤途中で撮影した南相馬市小高区の村上海岸から望んだ朝日である。太平洋に反射する朝日…いつもなら私にエネルギーをもたらすのもなのだが…
不思議なもので、今改めてこの写真を見ると不吉な陰りのようなものが見えるような気がする。

この日の太平洋は凪の部類に入るほど穏やかな表情を私に見せていた。
しかし一見穏やかに見える海の表情の裏(海底地表深く)に得体の知れない何者かが潜んで隠れていた。そしてそれが一体何者かであるのかはこの時点では全く知る由もなかった。
※撮影:福島原発北側、日本の海水浴場百選にも選ばれた双葉海水浴場(津波一週間前)

 この穏やかな海が8時間半後に黒く盛り上がった呪われた悪魔の海原となって、平和な常磐の漁村、農村を襲うとは誰が予想したのだろう…
 そしてついに運命の日が来た。
2011年3月11日金曜日午後3時半大津波発生
 私は地震発生の時、福島第一原発の中におり、職場の安全を確認してから現場を離れ、国道6号線を始め主要道路のほとんどが寸断された常磐をさまよい歩くはめになる。
※南相馬市小高区海沿いの地図、おおよそ赤いラインから右側が津波に襲われた地域である。

 では深夜の常磐路をなぜさまよったのか?原発を出て家族のことが心配で仙台に戻りたい私だったが、原発の前の国道は仙台方面がカラーコーンで閉鎖(乗用車1台が通れるスペースを除いて)されていた。情報がなかった。また閉鎖された理由は一切知らされなかった。(後に国道に入った著しいひび割れによるものであることが判明)私はやむなくいわき方面に向かった。いわきに向かったもう一つの理由は震源が三陸沖、宮城県沖と聞いていたので、少しでも震源から遠のけば被害も少ないだろうということだった。しかし、パトカー、消防車、救急車が頻繁に6号線を行き違い、周辺町役場からは臨時の災害放送が流れていた。あまりにも周囲の様子がおかしい…、事態が深刻でせっぱつまっている様子がうかがえる。
 
 「こういうときはへたに動くと危ない。」そう考えた私は隣町の富岡町のパチンコ店の駐車場で体力温存のために車中ビパークしようと考えた。駐車場でしばらくじっとしていると、ホンダに乗った若者が血相を変えて猛スピードで海側から車を飛ばしてきた。しかしその飛ばしてきた理由がなんなのかすぐには理解できなかった。その駐車場で偶然宮城ナンバーの軽自動車に乗った男性と一緒になった。こちらから話しかけると彼は家が南三陸町にあり「ラジオで情報を聞いていたら南三陸町が津波で大変なことになっている。」と不安そうに話した。ホンダの若者が必死の形相で飛ばしてきた理由がやっとわかった。広範囲に渡る東北の沿岸を大津波が襲ったのだ。
 
 自分の家族のことが急に心配になってきた。自分の家は山の手のほうで津波の心配はなかったが、地震そのものによる被害や火事が心配だった。「こうしてはいられない。仙台に帰ろう。」ここから私の迷ていが始まった。国道6号線にできた段差はひどいもので20センチから30センチに及ぶものもあり、何度も車の下回りを段差にぶつけこすりながら進むしかなかった。
 
 「一体この先でなにが起きているのだろう?」休んでは走り、休んでは走り、私の車での迷ていは深夜に及んだ。しばらくはくねくねした内陸路(旧道)を走り、町場では渋滞にもつかまった。「こんな時間にしかもこんな田舎で渋滞なんて一体どうなってるんだ?」
 
 古い日本家屋の多くはつぶれており、町行く人の顔はみなひきつっていた。電気の全くない真っ暗闇の中、うねった道を車で走るには細心の注意が必要だった。道路のひび割れにタイヤを落としはしないか?陥没した道が車の通行によって更に沈まないか?車を路肩や水たまりに落とさないか?…そして悪戦苦闘の末、日付が変わったころに私は南相馬市小高区あたりまでなんとかたどりついた。
 
 「ここまでくれば国道6号線を走れるかもしれない…」そう考えた私は内陸から海側に向けて車を走らせた。まばらな家が立ち並ぶ住宅地に来た時、景色が一変した。泥水で道路が茶色になっていた。私は「地震で水道管が破裂したんだろう…」くらいに考えて更に先に突き進んだ。ここで恐ろしい景色を目にすることになる。根元から折れまがった電柱、道路一面のへどろ、横転して運転席をひきちぎられた大型トラックの無残な残骸、不気味に暗闇に浮かぶ住宅跡らしき基礎、閉鎖され大幅に変形したコンビニ店舗…あまりの変わりようにこの道がいつも通っている6号線だと気づくまで少し時間がかかったのだ。
 
 しかしエネオス石油の看板を見たとき、ここが6号線に間違いないと直感した。私は恐ろしい津波の爪痕を見ながら、今来た海水にまみれたヘドロだらけの道をひき返し、午前1時15分ころに停電している南相馬の宿マルマンビレッジ(やや標高が高く津波に浸かっていなかった)になんとかたどり着いた。
 
 命の危機に瀕したせいだろう。停電のため暖房がなく真っ暗で寒い宿の一室で私は異常なほど興奮していた。不気味な余震は一晩中続いたが、最も怖いのはこの宿まで津波が上がってくることだった。ゴーーッ暗闇の中で不気味な音が聞こえる。余震の音か津波の音なのか聞き分けできない。「くそっ、こんなことで死んでたまるか。気を強く持ってやる!」明け方まではあまり時間がなかったが私は孤独で不安な一夜を明かした。
 
 孤独な暗闇の中で私の高ぶった気持ちを沈めてくれたのはポルトガル国歌の一小節「偉大なる先祖の声を聞け。」という言葉だった。その時、私の耳には先祖の声がかすかに聞こえていた。その声は私にこうささやいた。「ここなら絶対大丈夫だ。明日に備えて体力を蓄えろ。」と
 
※ポルトガル国歌へのリンクhttp://blogs.yahoo.co.jp/bgytw146/24271039.html
 
 翌日の12日早朝内陸路(丸森ルート)を経て、半日がかりで帰路に着いた。仙台バイパスは避難や食糧などの買い出しで渋滞がひどかった。家に帰り、家族の無事を確認して落ち着きを取り戻したが、一歩間違えば道路の段差や津波のヘドロにはまりそうで、命掛けの帰還になった。
 
 現在私の家は電気はついたが水道ガスがいまだに未復旧である。しかしこれとて家を津波で流され避難所生活をされている人に比べると苦労の部類には全く入らない。災害はこれからが正念場である。行方不明者の捜索、福島原発の放射能の問題、被災地への物資供給、応急住宅の確保…先行き不安に思われるかたも多いだろう。
 
 そんな中、18日夜の福島原発の危機に臨んだ菅首相の記者会見での発言が心に力強く響いた。「この危機を絶対に全力を挙げて必ずや、必ずや乗りきろうでありませんか…」私はこの言葉に奮い立ち、大いに力づけられた。
 
 私は誓う!『戦いはこれからである。子孫のために美しい太平洋沿岸を再び絶対に取り戻す!』最後にこの場を借りて今回の東北関東大震災に際し私の安否を気遣って頂き激励、お見舞いの言葉をかけていただいた多くのかたに深く感謝しお礼申し上げたい。
 
「皆さん、本当にありがとうございました。」
【Never Give Up! !】
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