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         寄する波もあれば返す波もある
 最近の仕事場となった常磐から二週間ぶりで仙台に戻った。寂しい夜の福島県浜街道を車で走る。途中砂嘴の丘(砂洲が伸びて一方と繋がって入江となった地形)となった相馬の松川浦と鵜ノ尾崎を通った。車の通行も少なく誰も居ない浜辺に降りてみる。 
 
 ゴーーー、静まり返った砂浜に太平洋の荒波が獣の遠吠えのような唸り声を上げる。
 吸い込まれそうな常磐の海、私は誰一人居ない夜の砂浜に遊び瞑想にふけった。
 漆黒の海原に月光が指し、妖しく輝く…



 私はその昔、秋田の有名な作曲家、成田爲三が作曲した『浜辺の歌』を思い浮かべていた。
この曲は私の出身地である宮城県石巻市の住吉望楼(今は解体されて現存しない)から朝夕、時を告げるメロディーとして流されたものであり、私を哀愁へといざなう思い出の曲だった。

浜辺の歌
浜辺の歌歌詞
①あした浜辺をさまよえば 昔のことぞ偲ばるる 風の音よ 雲のさまよ 寄する波も、貝の色も②夕べ浜辺をもとおれば 昔の人ぞ偲ばるる 寄する波よ 返す波よ 月の色も 星の影も  五十代半ばとなって気がつけば幼い時、周りに居た肉親の多くが、そして知人の多くが故人となってしまった。人間はなんとはかなく、哀しいものなのだろう。 寄する波で人は生まれ返す波で人は死んでいく。その繰り返しが現世の営みでないのか?

浜辺の歌 (合唱バージョン)

 
 だが、いつの世にも不変で美しいことがある。それは浜辺で言えば風の音、雲のさま、貝の色であり、人間界で言えば煩悩を離れた人に対しての仁(いつくしみ、思いやり)の心ではなかろうか。 
 
 宇宙の歴史の中で地球の存在などは砂粒にも満たないものだろう。地球の中での人間の存在なんて塵にも満たないものなのだろう。その塵にも満たないものにこだわる人間のそして私の煩悩とは一体なんなのだろう?
 
 夜の幻想的な海を見て私はそんな思いを抱き、一人感傷に浸った。鵜ノ尾崎を通過して松川浦に架かる吊り橋(松川浦大橋)にさしかかる。ライトアップされた橋が美しく暗闇に浮かび上がる。仏教の教えでは現世の出来事は全て幻と説いているが、この美しい橋もやはり現世で見る幻なのだろうか?



相馬港を少し過ぎて後を振り返ると相馬共同火力の煙突から煙が風になびいていた。
ここは二十年ほど前に私が仕事で訪れた感慨深い場所でもあった。



 その日は満月が放つ光に幻惑されそうになるほど、妖しい雰囲気の冬の夜だった。放射冷却で冷え渡っていたため、夜でありながら海原の遠く(水平線)が恐ろしいほど見渡せた。浜辺の歌の歌詞のごとく私の脳裏に昔のことや人のことが次々に浮かんでは消え、浮かんでは消えていった。
 
 ふと気がつくとダークグレーの水平線のかなたに漁火を灯した一隻の船が浮かんでいた。この船さえも幻なのか…新地の浜の潮騒と乾いた冷たい風が私に一層の寂寥感をもたらしていた。
 
 夜の浜辺にほんの数分ほど留まっただろうか。ふと、夜空になびく相馬火力発電所の煙突の煙と相馬港の灯が悩める私をこう諭してくれた。
「人生は煩悩との戦いだが、煙が風になびくがごとく、しかも継続することが大切なのだ。」と…
※撮影場所:福島県相馬市新地浜
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