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小説『現代版津軽』その6
         斜陽館に秘められた呪いとは?
 澗の日本酒が回り、金木に着いた時はほろ酔い気分だった。私がこの町を訪れたのはちょうど二年ぶりで二度目だった。一度目は斜陽館(太宰の生家)を見たくらいであったが、今回はこの太宰の生誕の地をとらえ探索したかった。
 したがってこの地に来てほとんど誰しもが訪れる斜陽館は今回は外観のみの見学とした。斜陽館の代りに私の心をとらえたのは前回行けなかった『太宰の暮らした疎開の家』(津島家新座敷)だった。
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※写真:旧金木町目抜き通り

『太宰の暮らした疎開の家』(津島家新座敷)

この屋敷は大正11年(1922年)太宰の兄文治夫婦の新居として現斜陽館の離れとして建てられ、太宰が死んだ昭和23年に約200メートルの曳家(ひきや:建築用語で建物を壊さないでそのまま移動する工法)を行い現在の場所に移されたものである。
※斜陽館と津島家新座敷の位置関係

新座敷の見学料と問合せ先、開館時間

新座敷の間取り

 現在の建物のオーナーであるSさんからいろいろと説明を受けた。太宰が昭和19年12月、生前の母の最期を看取った。以下小説故郷より抜粋
 
『母は離れの十畳間に寝ていた。大きいベッドの上に、枯れた草のようにやつれて寝ていた。
けれども意識は、ハッキリしていた。 「よく来た。」と言った。妻が初対面の挨拶をしたら、頭をもたげるようにして、うなずいて見せた。
 私が園子(太宰の娘)を抱えて、園子の小さい手を母の痩せた手のひらに押しつけてやったら、母は指を震わせながら握りしめた。枕頭にいた五所川原の叔母(=きゑ)は、微笑(ほほえ)みながら涙を拭いていた。
 病室には叔母の他に、看護婦がふたり、それから私の一ばん上の姉、次兄の嫂、親戚のおばあさんなど大勢いた。』
 
 この年は小説津軽執筆の折に実家に立ち寄った年でもあり、この時から太宰は実質的に勘当を解かれていた。実母から十分な愛情を注がれなかった太宰とされているが、この一小説を見る限り、太宰の母への思慕が十分に伝わるシーンである。
※太宰が実母タ子(たね)を看取った十畳間、奥の座敷は太宰が書斎として使用した。

 太宰が16歳のときに兄と弟と姪子とともに撮ったとされる写真を見て、太宰が立っていた扉の前と同じ位置に私も立ってみた。彼はその時どんな気持ちだったのだろう…はにかみ屋で兄に頭の上がらない(古いしきたりの津島家には兄弟にも序列があった)太宰のことだからにやけるという彼得意の道化を演じていたのだろう。
 
 東京~甲府~三鷹と移り住み、作家としての円熟期を向えた彼は東京空襲を逃れるため妻子とともに津軽へ疎開、故郷に再び居を得た太宰はここで創作活動に励み、二十三編の小説を描いた。
※左が姪子を抱く太宰、中央は三兄の圭治、右は弟の礼治(この写真から太宰の表情はわかりづらいがアップで見るとやはりにやけている。)

上の写真から左側の扉の前に太宰が座っていたことになる。

この洋間の脇のサンルームで執筆したこともあったようだ。

※中庭からサンルームを臨んだアングル、窓枠は当時のままなのだろう。63年の年輪を感じさせる。

 この時既に三度に渡って心中や自殺を企てた太宰だが久々に故郷に戻って安心したのか、彼はいきいきしていたという。今でも太宰を師匠と慕う小野才八郎氏(90歳で現在も作家として健在)と出会ったのもこのころだった。「ヤマゲン(津島家の称号)に宝物(実際の宝とは裏腹にその素行不良を卑しめて言った皮肉言葉)が来ている。みんなで見に行こう。」当時小説を知らない若者にとっては作家太宰は一種の見せ物のような好奇心の対象だった。
 
 「あがれ。」唐突ではあったが、友人とヤマゲンを訪ねた小野氏は太宰の気さくな出迎えを受けた。応接間に通された小野氏とその友人は太宰からこう告げられた。「俺はしらふで人と話をすることができないんだ。だから君たちには悪いけど先に一杯やらせてもらうよ。」そして太宰は戸棚にしまってあったウヰスキーを持ってきて小野氏にも勧めた。この時、今までウヰスキーなど飲んだことがなかった小野氏は「まむし酒に似ている。」と答え、太宰は大笑いしたという。このことは後に小説ネタ(親友交歓に掲載)になったが、『人を喜ばせるのがなによりも好きだった』とされる彼のサービス精神とユーモアがよく現れたシーンであった。
 
 実はしらふで人と話ができない(したがって照れを隠すために酒に逃げる)のは私にも覚えがあった。二十台の私が一番苦手としたのが社内旅行だった。仕事の時はそうでもなかったが、社内旅行は今まで仕事でしか付き合わなかった人と私服を着て全くのプライベートで接しなければならない…これが私にとってどれだけ苦痛だったのかはなかなか分かってもらえないだろう。
 
 社員旅行でI県のG渓に行ったときは、船下りで寿司詰め状態で無理やり船に乗せられ、膝と膝が触れんばかりの距離に他の社員が乗ったときに私は戦慄に近い恐怖を感じたことがあった。早く逃げ出したい。泣きたい気持ちであった。照れが極限に達すると立派な恐怖になり得るのだ。また酒が飲めなかった二十代前半の私は酒の席が苦手で宴会で人と全く話ができなかった。でもそれを見破られるのがもの凄い苦痛(変なプライドがあった)で、照れを隠すために酒に逃げることを覚えた。酒をうまいと思って飲んだことは一度もなかったが酔うためだけに酒をくらった。酔いを利用して気を大きくして酒を飲めばなんとか人と話せるようになったのは若かりしころの私の苦い思い出である。
 
 煙草は伊達(だて)煙草を覚えた。仕事仲間と飲み屋に行ったら、ホステスのお姐さんが煙草(パーラメントロング)をふかしている…その姿を見て私はたじろいだ。私はこれに圧倒されまいとしてわざと伊達煙草(肺には入れず鼻から出すだけの吸っているふりをするだけ)をした。そして太い葉巻、ジョンプレイヤースペシャル、ロスマンズ、マルボロ…をふかした。実はこれらの私の行為(飲酒、煙草)は全て私の照れを隠すための行為であったのだ。
 
 それと太宰が弘前高校に入学してカフェ通いをしたときにカフェの女給を連れて料亭に行ったようだが、この料亭で飲食した後の会計で釣りをもらうときに、彼はその少しの間が持てず照れが高じて、しどろもどろになり、ついには逃げ出したくなるほど憔悴したという逸話がある(題名は忘れたが太宰のある作品で読んだことがある。)が、私にもこれと全く似た経験があったのだ。太宰の逸話を知るまではこういう思いをする人間はたぶん私だけだと思っていたので幾分救われたような気がするのである。
※斜陽館のある本通りに向かう。

※今でも金木の町で圧倒的な存在感を誇る斜陽館。大正初めには太宰の父源衛門が衆議院に当選、津島家の最盛期を向かえる。このころ父源衛門は津軽の殿様と呼ばれていた。

※刑務所を思わせる赤レンガの高い塀、これは津島家から虐げられた小作人の暴動に備えてのものだった。

※御殿のような立派な屋敷に秘められた呪いとは?


更にSさんから津島家(ヤマゲン)の裏話を聞かせてもらった。
①津島家は最盛期で二百五十町歩(東京ドーム53個分)の土地(農地)を有していたがそのほとんどは農地を貸した小作人が凶作などでコメを納められなかったことによる抵当での土地の取り上げ(太宰は搾取という言葉を使っている)によるのもであった。
②津島家は金融業も営んでいたがその実態は高利貸しであった。(もちろん抵当権の行使による土地の没収があった。)
③津島家の先祖は代々の地主ではなく、少し前までは村のはずれで細々と油売りを営んでいた。(今で言えば成金)
 この説明を聞いて太宰の心境(大地主の家に生まれ育ちながら罪の意識に苛まれた理由)が良く理解できた。御殿のような立派な家の周囲に張り巡らされた刑務所のような赤レンガの高い塀は土地を搾取せられた小作人の暴動に備えたものであり、警察のすぐそばにこの屋敷を作ったのも同じ理由(暴動への備え)だったのである。この斜陽館の下には津島家の犠牲になって土地屋敷をとられ没落、家族離散した小作人のうめき、悲鳴、怒号が渦巻いていたのだ。
 しかし戦後の農地返還で流れが変わった。太宰の兄が選挙で資金を使った経緯もあって、津島家はこの屋敷を手放すことになる。
 津島家の隆盛と没落に見るにつけ太宰の心境が少しわかったような気がする。私は次の目的地芦野公園に向かうべく吹雪のなか再び金木駅に向かった。

            その7へ続く
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