fc2ブログ
第二章「大川家の生き残り」
その一
大川家の祖
私の祖父方のルーツである大川家は古くは現岩手県南部に住み葛西家の下級武士として代々仕えたが、戦国の世の末を向かえ、既に勢力の衰え始めた葛西に見切りをつけて帰農していた。この頃の一族の生活は貧しく、やませ(北日本の太平洋側で春から夏にかけ冷気に見舞われる現象。低い雲や霧がかかり農作物に深刻な影響をもたらす)による土地柄と深刻な飢饉の影響で衣食住もままならず、家族や親戚を失うのは珍しいことでなかった。帰農と言ってもこの時代の足軽と下級武士の境界は曖昧で、下級武士の多くはいざとなって戦の際は槍や刀を持つものの、普段は食うために百姓をしていた。

大川家は表面上は百姓を装い、いざとなったら戦場で功を成すことを考えていた。この頃の身分制度はよく士農工商と言われるが、ヒエラルキーが支配する武士集団の下で、士と農との両面を併せ持つ者が数多く出入りしていたのである。水呑み百姓の身分から織田信長の庇護に入り、天下人へと出世した豊臣秀吉もそのような境遇の人物であった。

葛西氏は奥州の他の大名同様に、古くは坂東武者の出で、下総国に領地を持つ豊島氏を起源としていた。葛西清元とその三男である清重は奥州藤原征伐において源頼朝の家臣として功を成した。奥州葛西氏はその功によって現岩手県南部、沿岸、宮城県北部に広い領地を得た名門であったが、奥州の雄伊達氏の台頭もあり、戦国末期には次第に勢力に陰りが見え始め、内部の統制にも支障を来たしていた。そして天正18年(1590年)の豊臣秀吉の奥州仕置が決定的なものとなり、遂に滅亡に至った。この時、豊臣秀吉は有無を言わさず伊達政宗に大崎や葛西の残党狩りを命じた。

政宗は家臣の泉田重光に命じ、大崎一揆の首謀者らの残党を須江山(現石巻市須江細田)に集めた。「降参した者に対しては領地は小さくなるものの名は残す。太閤秀吉様には軽い裁定を裁定をお願いする由…」葛西旧家臣らはそんな甘い言葉を信じ、帰ろうとしたその時、林の影に潜んでいた伊達武者の一群が一斉に襲い掛かった。弓、鉄砲等で武装した伊達の精鋭軍団に不意打ちをくらった葛西残党はひとたまりもなかった。この時屈強な伊達武者の軍団の中には後に欧州遣欧使節団を任された支倉常長も居た。こうして従者を含め、数百人にも及ぶ大殺戮が行われた。

大崎一揆制圧といい、須江山の残党狩りといい大川家の帰農がもう少し遅れたら、その後の生き残りはなかったのかも知れない。大川家は時代の激動に弄ばれながら、細々と血筋を繋いできた。そんな大川家に嫡男儀左衛門が生まれたのは1598年(慶長3年)、葛西氏が滅んで8年目のことである。葛西を離れた一族だが、このままでは食べていけない。その為に儀左衛門は伊達氏の庇護に入ろうと考えた。伊達家の領地は奥州仕置で不毛な土地(旧葛西領地)に移ってしまったが、生き残るに必死だった大川家にとってこの時の伊達氏の移封は渡りに舟だったのである。

伊達政宗の野望
大川家が伊達への服属を決めたころ、伊達家は大きな転換期を迎えていた。もはや戦が強いというのは過去の夢物語であり、これからは経済力の時代であった。「武力で百万石が手に入らぬなら、不毛の土地を切り拓き稲作をもってこれを手に入れてみせよう!」伊達政宗の抱いた構想は極めて壮大なものだった。

政宗は旧葛西の広大な領地に目をつけた。ここには大河・北上川が流れている。この北上川こそが自領に富をもたらす川であると考えたのである。河口に石巻という葛西氏ゆかりの湊があったが、往時の石巻湊は大型船が入港出来ない小規模なものであった。それと中流域(現登米地方)では大雨が降る度に洪水を繰り返していた。その周囲には未開ではあるものの、肥沃な野谷地(湿地帯)が広がっていた。この地に治水を施し、農耕に適した土地にすることが急務だった。

この野谷地を稲作に適した地とするには優秀な土木技術を持った者が不可欠だった。そんな政宗の目に止まったのが毛利(関ヶ原の戦い以降に長門国を統治した大名:長門国は長州とも)浪人の川村孫兵衛だった。孫兵衛は土木技術の他、水利天文、測量技術等に長けた人物であった。若い頃の川村孫兵衛は才気と精気に満ち溢れた人物だったがそれだけではなかった。徳に厚い人物でもあった。孫兵衛がこの地で成功を収めた理由として技術力もさることながら、高い人徳も挙げねばならない。


伊達政宗には、例え敵対した武将でも自分の役に立つのなら躊躇なく家臣として召し抱えるという指向があったが、人の資質を見抜く確かな眼力も備えていた。孫兵衛が政宗の目に止まった理由は、指導者として欠かせない要素である高い徳であった。「この男なら困難を極める普請も任せられる」政宗はこうしたよそ者を抱える際の扱いも巧みだった。抱えた武将が再び変心に至らぬよう、十分な恩賞を与えたのである。

1601年に孫兵衛が伊達に来た際も政宗は名取郡の早股に500石を与えたが、孫兵衛はこれを丁重に辞退した。これは旧家臣連中のやっかみを案じてのものだった。新たに召し抱えた家臣がこうした処遇を辞退するのはけして珍しいことではない。新参者への妬みほど恐ろしいものはない。孫兵衛のこの辞退は古参の家臣らに対して彼の高い徳を訴えるに十分なものがあった。既に戦のない時代となり、優秀な土木技術者・川村孫兵衛を向かえた仙台藩だったが、財政難に陥っていた藩の課題は山積みだった。

続く
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
横町挨拶
一読頂いてお気づきと思いますが、これはけして歴史エッセイではございません。それは己のルーツを想像して史実の中に取り入れようと試みた所以です。これはここ数年に渡るルーツ調べと、様々な文献の読みあさり、現地取材などから得たものを集大成し己の想像を加えたものです。但しその想像には根拠もございます。それは親戚から聞いた先祖代々の言い伝え(我がルーツは、その昔岩手県南部に住み、北上川改修の際は川村孫兵衛指揮のもとで普請に携わり、石巻に土着した)によるものです。

但し、いくら小説と言っても歴史小説と呼ばれるからには史実に忠実にありたいと認識しております。実は、この小説を書き始めるまでに大きな懸念がございました。それは学者や郷土史家の視線が気になったことです。例えば、北上川の改修工事は記録が少なく、文献によって様々な部分で食い違いがあるということです。但し、史実とされることでさえ誰も見ていたわけではございません。然らば、古文書などを信じ、これを足場として、ここからは己の想像を加えるしかないのです。

今年に入って今が書き時と考え、何度も現地取材や文献調査を入念に重ね、自分が第六感で感じるものも織り交ぜながら、執筆欲の低下と戦いました。難産と言えば難産となりますが、それだけにペンを持つ手に力も入りました。この話はまだ続きますが、肝であるモチベーションだけは落とさないよう励みたいと心得ます。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

関連記事

トラックバック

トラックバック URL
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)