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私は現在自分のルーツと北上川の関わりについての歴史小説の構想を練っているが、作品の構成上、自分のルーツが関わったとされる江戸時代の北上川改修工事(仙台藩士川村孫兵衛指揮のもと)の位置を把握する必要が生じてきた。今回は国土交通省 東北地方整備局のホームページ「北上川の概要と歴史」を参考に、中世まで(川村孫兵衛の普請が行われる以前)の北上川河口(石巻に注ぐ側)のルートを推定してみたのでブログで発表したい。

これは同ホームページに掲載された川村孫兵衛の行った普請の概要である。今回着目したのは河口付近のルートである。(破線が中世までの推定流路となる)

これはヤフー地図から引用した現在の水系図である。鹿又から河口にかけてかなりの蛇行が見られる。これは河口に造られた石巻の町を水害から守る為のものだったと言われている。孫兵衛は土木技術の他水利天文や測量術にも長けた優秀な技術者だったと言われるが、私は彼の叡智が北上川の河口付近の流路構想に生かされたものと察している。

同じくヤフー地図の地形図である。石巻専修大学の北側にトヤケ森山(標高173メートル)があり、川はどうしても西側に追いやられる。

左:国土交通省 東北整備局の図を基にして書いた中世までの推定図
右:治水がほとんど施されていなかった頃、こういう流路もあり得た(或いはトヤケ森山を挟んでの二股川が存在?)と考えた図
これらは何れも私の推定だが、左は信憑性が高いと認識している。












最も信憑性の高い推定流路を基に中世の頃のルートをヤフー水系図に落としてみた。驚くべきことは石巻の市街地の辺り(北東部)には中世の頃まで川が流れていた?ということである。これはこの付近一帯が谷地(低湿地)であったのを示すものと捉えている。

横町挨拶
中世までの北上川の流路について残っている資料は殆ど存在せず、僅かに葛西氏の古文書に湊と舟の存在が書かれている程度です。自分はここにメスを入れてみました。驚くべきことは自分が尊敬して止まない郷土史家紫桃正隆氏の推定(中世の頃の葛西氏の城のあった日和山の周囲は低湿地であった)との整合です。紫桃氏は生前、こうしたことを見据えた上で郷土を愛し、執筆活動をされていたと考えています。

今回の自分の推定した流路はもちろん、自分の作品に生かすつもりです。自分のルーツがどこで働き、どんな一生を送ったのか?これについてのイメージも徐々に固まってきました。後は一気にペンを進めたいと考えております。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

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