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自分は2016年8月20日に師匠と仰ぐ井澤先生のことをブログに書いた。つきあいの長いブロ友様に於いては記憶されておられるかたもお在りと察している。今宵はずばり申し上げたい。自分の反骨精神は井澤先生から引き継いだものであると。引き継いだと言ったが先生は昭和17年生まれゆえ、誕生日が来れば御年77歳になられる。喜寿の祝いに先生に何を贈ろうか?今から失礼のないように、ああだこうだと思い悩む自分である。

本日リンクした「雪の渡り鳥」は宴会における井澤先生の十八番であった。先生は苦労人であり骨太の人物である。若い頃は自衛隊に憧れ、父の反対を押し切って自衛隊に入隊したが、その後再び父の猛反対にあって断腸の思いで辞職している。その後、陸送(自動車を顧客の依頼で目的地に運ぶ仕事)などの仕事に携わった後は故郷の岩手方面で事業(著名食料品メーカーの小売店)を起こしたことがあった。この事業は最初のうちは順調だったようだが、その後は不景気の影響を受け、借金を抱え苦しい経営を強いられた。やがて資金繰りがままならなくなった先生は自殺を視野に入れ、猟師である父親の猟銃を常に持ち歩いたこともあったという。

事業に失敗して自殺を考えた時の先生は恐らく鬱だったのかも知れないが、ストレスで胃を病んだ先生が、その後どうやって立ち直ったのかは詳しくわからない。その後先生は北陸の富山に渡り、今度は人から使われる身となった。何分そのあたりのことは、なかなかこちらからは聞き難いことでもあり、四方山話の中で小耳に挟んだ程度のことなのである。

ここで先生の人となりについて述べたい。先生はとにかく物腰が低く、一見するとどう見ても渡世人には見えない。先生は常に笑顔を振りまき下手に出て、人あたりのすこぶる良い人物である。そして商売をまとめる上げるのが上手い。このあたりは、前半期の人生で、辛酸を舐めた経験やその後の営業職の経験が活きているような気がする。これは世渡り下手な私にはけして真似のできない裁量である。

そんな先生の趣味は銃剣道(旧日本軍において訓練されていた銃剣術を、太平洋戦争後に競技武道化したもの。木銃を用いて相手の喉、胴などを突き合う競技で構成としては警察官が多い)である。先生は五段の腕前で、年に数回は競技に参加していたほどである。先生は非常にがっちりした体格の持ち主で、強靭な下半身もさることながら、殊の他腕っぷしが強い。先生と一緒に風呂に入ったことがあるが、膝関節を境にして上腕二頭金や上腕三頭筋の筋肉のつき具合が、普通の人とは全く違うのである。それと僧帽筋の筋肉の盛り上がりが尋常でない。これは銃剣道で鍛えた他、若いころに父親から野良仕事を手伝わされたことが影響していると自ら語られたことがあった。



本日はそんな井澤先生の唯一武勇伝をお伝えしたい。自分は四十代半ばの頃在籍した企業の忘年会で或る人物(A)から絡まれたことがあった。ことの発端は私がA(私よりも二つ年上)に対して「今後は君付けを止めてもらいたい」と言ったことが発端であった。敢えて己の非を語るのであれば、往時の私は人間的に未熟ゆえ、こういう際に人を戒めるような口調でしか、これを表す術がなかったのである。人間の感情などは相手のしゃべりかた一つで変わるものである。ならず者のAは頭に血が上ったようで「横町、店の外に出ろ!」と述べ、喧嘩を吹っかけてきた。

私が無視するとAは大声で騒ぎ立て、今度は挑発するかのような大声で何度もわめき散らすように私を呼び捨てにした。40人ほどの宴席の興は一気に冷め、全員の視線がAと私に降り注がれた。その時反射的に私は「やる気か?」という声を発した。すると、Aは目の色を変えて「この野郎!」と凄み私のそばに駆け寄り胸ぐらを掴んだ。その時近くに居た井澤先生が一言だけドスの利いた声でこう言った。「おめえ、やめねえか!これ以上騒ぐとつまみ出すぞ!」それは普段温厚な先生が初めて見せた渡世人としての振る舞いであった。

この態度と言葉に圧倒されたAはしぶしぶ引き下がり、捨て台詞を吐いて二次会の開かれた店を去った。真の渡世人はなかなか刀を抜かないが、抜くときは覚悟が決まっている。先生はこれまで多くの修羅場を潜り抜いてきたのだろう。有事に於いて全く迷うことなく開き直る姿勢。これは先生との長い付き合いの中で後にも先にも初めて遭遇した気概に溢れた応対であった。



先生にはいろいろと世話になったが、一番世話になったのは転勤時の私が鬱を発症した時である。九州の佐賀で自殺を考えた私に「すべてを捨てて病院に飛び込め!」と電話で的確にアドバイスしてくれたのは、他でもない井澤先生であった。先生からそう言われるまでに、他の人物からはただただ「頑張らないとだめだ」とだけ言われ続け、益々窮地に追い込まれ、最後は悲壮な心理状態になっていったのである。その時の先生の声は正に神の声に聞こえた。この時先生の一言がなければ今の私はどうなっていたかわからない。井澤先生は正に自分にとっての命の恩人である。

2006年の春~秋の頃、鬱病と戦っていた自分に大きな悩みがあった。それは往時小学校高学年だった息子との会話がほとんどなくなったことである。テンションの上がらない自分は息子から忌み嫌われているのでないだろうか?私はずっとそのことを気にして、息子との関係がこれからもずっと長く後々まで平行線のまま推移するのではないかという懸念を持ち、悶々と一人で悩んでいたのである。

2006年秋に勤務を仙台に戻されてから、その件で何度となく先生に相談したことがあった。その時、自ら男の子供を育てた経験のある先生から貴重なアドバイスをもらった。先生が言うには「男の子というものは放って置いても何れは父親に相談する時期が必ず来るから心配することはない」というのである。これには正直言って半信半疑であった。

それから暫くして息子が大学に入り、私の懸念が取り越し苦労であったことを思い知った。これまで何度も記事にも書いているが、今では息子と良好な父子関係を築いている。先生から助言を頂いて久しいが、先生の予言が的中したのに際し、改めて先生の鋭い眼力を実感した気がする。

「払い退けても降りかかる。何を恨みの雪時雨、俺も鯉名の銀平さ 抜くか長脇差抜けば白刃に血の吹雪」自分は「雪の渡り鳥」のこの一節を聞く度に、井澤先生の渡世人としての生き様を重ねるのである。普段は常に笑顔をふりまき、けして感情を表面には出さず、温厚そのものながら、いざとなったら長脇差を抜く。

雑草は踏まれてもそれをものともせずに立ち直る。否それどころか却って強くなる。我が師匠はそのような反骨精神に溢れた人物である。先生は気負ったところがまったくないが、それが先生の懐の広さであり、風に吹かれる柳のようなしなやかさには、渡世人特有の強かさを重ねる。このあたりが先生の真の強さの秘訣である。

横町挨拶
精神の安定と自立により、このところ先生とは年賀状をやり取りするのみの関係です。先生もご高齢ゆえ、健康状態が心配ですが、自分が先生に年を気遣う素振りを見せれば先生はこう返すことでしょう。「人間生きるには虚勢も虚飾も要らない。柔剣道と同様に、人間いざとなった時には自然体(剣術で言う中段の構え)が一番いいのだよ」と。井澤先生ほどではありませんが、行く手を遮るかのような修羅場を何度も潜り抜け、この年になってその言葉の持つ意味がようやく理解できてきた気が致します。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。


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