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街道をゆく「横浜散歩」読後感想
司馬遼太郎が横浜を訪れたのは1982年(昭和57年)のことだった。「横浜散歩」が書かれたいきさつについて週刊朝日MOOK「司馬遼太郎の街道2」によると同年に発刊された「神戸散歩」と対であったという。往時の横浜を案内したのは涌井昭治氏(故人・当時の週刊朝日新聞出版局長)である。涌井氏は所謂ハマっ子で「生粋の関内生まれ」である。

涌井氏が案内した横浜港に対して、司馬遼太郎は「街道をゆく 横浜散歩」の中で「Wの案内は、以前もそうだったが、今度もそうだった。自分が子供の頃に遊んだ場所につれてゆくのである」と書いているが、ここで言うW氏が涌井氏のことである。



こうした話を聞くと「街道がゆく」シリーズにはそれぞれに郷土に詳しい水先案内人的な人物がいて、事前に巡る場所をピックアップしているようである。この時の取材には画家の須田剋太画伯が同行し、往時の横浜の風情を絵筆で表している。須田画伯を始め、既に三人とも故人となってしまったが、このあたりに取材から三十数年という年月の移り変わりが窺える気がする。

左から二人目:週刊朝日新聞出版局長涌井昭治氏
中央:司馬遼太郎
右から二人目:須田剋太画伯



横浜港の成り立ち
多くの日本の港は砂嘴(砂の堆積によって海に突き出た低平な地形)の上に形成されたものが多い。横浜港もその例外でなく河川や沿岸流がもたらした堆積層の上に形成されたものであったとされる。井戸も湧き難くけして住みやすい場所ではなかったが、江戸に近いという立地がこの藩政期の頃寒村だった横浜村の運命を変えることになった。1858年(安政5年)に米国との間で結ばれた日米修好通商条約で幕府は横浜を新たな港として拓くことをタウンゼント・ハリス(アメリカ全権)に認めさせた。

関内という地名は関所の内側という意味である。ペリー来航のこともあり、幕府は攘夷派と夷敵(外国から船でやってきた外国人)との間に争いが起きるのを極度に恐れた。従って少しでも江戸から遠い横浜を選び、周囲を関所で固めたかったと司馬は語っている。横浜は長崎の出島とは規模が全く違うし、陸続きという立地もあり、このあたりに幕府は相当神経を使った節が窺える。

※昭和57年、司馬遼太郎が取材で訪れた地点


涌井氏は司馬を吉田橋に案内している。日本で最初に造られた鉄の橋が横浜だったのは、如何にこの場所が欧風文化伝播の玄関口であったのかが窺えるものである。

※須田剋太画「吉田橋」

我が国の欧風道路の先駆けとなったに馬車道(1867年に造られる)には、ガス灯風の街路灯や赤レンガ風の歩道など古き良き時代を偲ばせる面影が今でも残っている。新港埠頭の赤レンガ倉庫は流通の文化財的史跡という趣を呈している。この赤レンガ倉庫は日本がアメリカに支払った賠償金(下関戦争の後始末)の返還金を当てたものであったというが、その理由について司馬は少年の持つ正義と市場の開放を望む現われとしている。



近年の横浜港と氷川丸に漂う悲哀
司馬は現在の横浜港について「広すぎてとても歩いては周れない」としている。往時の横浜港で扱う金額は年間10兆円で、この金額は成田空港に次ぐものであるという。そんな横浜港の物流の管理に関わっているのが横浜市港湾局であるという。画像には司馬が取材をした際、当時港湾局港務部長を務めた中新井氏が登場するが、往時はアナログ全盛の頃で事務所では船の出入りの連絡を取る電話で賑やかだったという。今はコンピューターで管理されていて、こうしたアナログでのやり取りはだいぶ減ったようだ。

※須田剋太画「横浜港風景」


外洋船の船長などを経験した中新井氏は司馬の言うポートキャプテン(港長)を彷彿させる貫禄と徳にあふれた人物である。日本では有名な横浜港が、世界的支店で見るとさほど知られてない(太平洋上の対面となるロサンゼルスの貿易商が横浜港の位置を知らなかった)というのは少しショックだが、航空機の輸送が主導となってきた時勢を表すものという気がする。

司馬は涌井氏の案内で氷川丸(昭和5年に横浜-シアトル間航路に就航し、283回に渡って太平洋を往復し、昭和35年に務めを終えた日米間の定期客船)を訪ねている。取材で司馬は最後の船長となった水谷氏(故人)と会っている。司馬から見た水谷氏は「明治の士族的気風を西欧のマナーで磨き上げた人物」であるという。司馬はこの時水谷氏から極めて印象深い言葉を聞いた。

※展示の為、横浜港に繋留された氷川丸


「船旅の時代は日本では終わったが欧米では続いている。彼らは日本人と違って、ゆっくりとした時間の流れに身を置くという愉しみを文明として持っているから」だという。日本人はつい気忙しく航空機で飛んで行く。文化の違いとは言え、両者の国民性の違いを見事に言い当てた言葉という気がした。司馬は氷川丸を下船して遠ざかったから氷川丸を眺めた。時代がスピードを求める因果とは言え、航空移動(輸送)の隆盛と航海移動(輸送)の衰退…、司馬は氷川丸に今日の横浜の姿そのものを重ねながら桟橋を後にした。

横町挨拶
私と横浜港の関わりですが、残念ながら過去に箱根に向かう際、そばを通過した思いばかりで実際に横浜港を訪れたことはございません。但し、横浜はブロ友様の不あがり様がお住まいの地域であり、今回のような著作で横浜を知ることは不あがり様への誼に繋がるものと考えています。また、不あがり様は須田画伯についても造詣が深いかたで、過去に画伯のことについてご教示を頂いたことがございました。

ところで、最後の氷川丸の元船長・水谷氏の述べた趣旨(日本人の多くは気忙しく、船旅を愉しむような心の余裕がない)は文化の違いとは言え、伝統的に働き蟻的な国民性を有する日本人としては、やや寂しい気が致します。日本のサラリーマンの休暇は長くても十日(それも一部の大企業)ほどで、フランスのようなバカンス(一箇月前後の長期休暇)にははるかに及びません。日本人の気質を良く言えば生真面目となるのでしょうが、余裕のなさを改めて自覚した気が致します。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。



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