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私が宮城県南部の沿岸である亘理町の荒浜地区を訪れたのは8月2日のことだった。津波襲来の地という石碑が痛々しい印象を与えるが、実はここには藩政時代に御城米(年貢を納める為に収穫された米)を蓄えた蔵のあった場所である。

蔵があったのは亘理町立荒浜小学校の体育館の南側の辺りである。実は阿武隈川の水運に深く関わっていたのが城米浦役人(一時は舟肝煎り)を代々務めた武者家である。本日は武者家のルーツと同家が果たした功績について話を進めて行きたい。

これは昭和62年の河北新報に掲載された武者家の米蔵である。(千葉宗久氏「地図と写真で見る荒浜の歴史」P11より引用)武者家の旧敷地には200年以上も前の米蔵が1棟だけ残っていたという。(18世紀半ば~後半頃の築造か?)

これは天正年間(1644~1648)に作成仙台領の国絵図を元禄年間(1688~1704)に転写し清書したものである。(千葉宗久氏「地図と写真で見る荒浜の歴史」P9より引用)
武者家がこの地に土着したのが元和年間(1615~1624)であるので、それからさほど経ってない時期である。荒浜は河口の左側(右岸)であるが、往時の荒浜はまだまだ寂しい漁村という佇まいであった。


複数の文献とインターネット(井上拓巳氏のサイト等)を基に、武者家の家系図を作成してみた。武者家のルーツは武田勝頼の家臣・土屋惣蔵にあるのは、多くの文献の一致するところだが、惣蔵の娘とされる竹姫とその配偶者(ここでは武者家初代と書いているが)が誰なのかがはっきりしない。果たして竹姫の他に養子となった惣右衛門までが磐城の釣師浜(現福島県新地町)から来たのか、このへんは定かでない。

こうしたことを推し量る際に重要なことは往時の釣師浜の統治が誰だったのかを背景に見据えねばならない。1580年代後半まで相馬領だった釣師浜は1589年に伊達政宗の手に渡っている。然らば一度は相馬についた竹姫や従者も、両者の勢い、力関係から言って寝返るほうを選択せざるを得なかったと私は推定している。ただ、気掛かりなのは言い伝えである武者家が荒浜に住みだした時期(1620年前後)と期間が空き過ぎていることである。(三十年前後のブランク)この間、土屋惣蔵の子孫や郎党が何をやっていたのか?或いは武者主計なる人物が何者なのか?このあたりを推し量るのは今後の課題と考えている。



文化9年(1812年)における阿武隈川図(千葉宗久氏「地図と写真で見る荒浜の歴史」P10より引用)である。幕末も近づき、荒浜も活気を呈してきた頃の図と捉えている。



御城米積替作業絵図(福島県国見町深山神社所蔵:千葉宗久氏「地図と写真で見る荒浜の歴史」P13より引用)である。荒浜では、小さな川舟によって上流から運ばれてきた米が大きな帆船に積みかえられた。下のほうに描いた二人の人物は身なりから言って幕府の代官か?



これは武者家屋敷図である。(千葉宗久氏「地図と写真で見る荒浜の歴史」P12より引用)中央が主屋と見られるが、周囲には納屋や土蔵が立ち並び大きな屋敷だったことがわかる。



(同じくP12より引用)これは御用米絵符といって陸上では全ての通行人に道を譲ることを促す札である。海上に於いては運搬する船が不足している際、この絵符を投げられた船は事情があろうと御城米輸送に携わらなければならなかったとされるものである。武者家は苗字帯刀も許された家柄で、正に士族並みの待遇を受けた家柄であった。



武者家家系図その2である。武者平十郎が何代目かはわからなかったが、18世紀に活躍した人物であったようである。



荒浜には昭和の頃まで城米輸送に使われた堀が残っていたようだ。瑞賢堀は東廻り、西廻り航路を開拓した河村瑞賢にちなんだ命名である。(千葉宗久氏「地図と写真で見る荒浜の歴史」P33より引用)



震災後の荒浜地区には護岸工事で高い堤防が建設され昔と全く風情が変わってしまった。明治末期のこの写真を見ると堤防が全くないことに気づく。(千葉宗久氏「地図と写真で見る荒浜の歴史」P19より引用)



米蔵のあった辺り(武者家の屋敷があったのもこの辺りか?)は、荒浜小学校になっている。大変残念なことだが、往時の面影を残すものは、小さな堀を除いて)ほとんどなかった。



横町挨拶
今回の記事から書庫を新設し、これからはその書庫に投稿するようにしました。書庫の名前は「荒浜武者家の功績」です。片手千人斬りの異名を残した猛将・土屋惣蔵の子孫が深く阿武隈川の水運に関わったのはインパクトのあることでした。また同じ亘理には、かつて相馬がたにつき、伊達に攻められ小牛田に逃れていった豪族・十文字氏も居りましたが、武者家はこれとは全く逆で、他国から逃れてこの地に居つきました。これには対照的なものを感じます。

8月2日非常に残念だったのは、藩政時代の面影が残っていなかったことです。震災に遭い、以前よりも戸数の減った荒浜地区ですが、かつて、この地に栄華があったのは事実です。僭越ながら、この地区のかたがたには、こうしたことを心の拠り所とし、希望を持って進んで頂きたいと存じます。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。


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