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去る5月12日、宮城県北部の涌谷町の城山公園資料館(擬似天守閣内)に行った際、偶然にも亘理十文字氏の末裔の人物の展示を発見した。これを基に様々なサイトを調べ、十文字一族のことがかなりわかってきた。本日は自分なりにCADで家系図を作ってみた。十文字氏はインターネットでもマイナーなので、恐らく初公開と捉えている。また、掲載した十文字栗軒の肖像写真もインターネット初投稿と察している。
※約2倍に拡大可能

亘理十文字氏の初代は武石氏(亘理氏:相馬氏の祖であり源頼朝に仕え、奥州藤原征伐で武功のあった千葉常胤の三男)の一族と目され、一時は相馬氏と結びその同盟の証として、各地に現亘理町各地に妙見社を建立した。その後、相馬氏の庇護の下、栄華の兆しを見せたが、伊達政宗による伊具奪回などが始まり、一気に旗色が悪くなる。そして1585年に伊達成実(伊達政宗の従兄弟)に滅ぼされ、末裔は帰農し、宮城県北部の涌谷に移封されたという。亘理から涌谷に移ったのは四代目の頃だろうか?資料が少ないことゆえ、今後の課題と認識している。

※宮城県亘理町逢隈地区の十文字館跡(2015年4月横町撮影)


さて、今回判明した十文字栗軒は先に発表した大元の養父であり、叔父にあたる人物である。略歴を見るとなかなかの人物であったようだ。

十文字栗軒(じゅうもんじりっけん)(1812~1891)
仙台藩士・昌平校などで儒学を学ぶ。明治維新は開国勤皇派として薩長との折衝を託される。戊辰戦争以降は北海道開拓に渡り、開拓使判官、島義勇への推挙などで活躍する。


(以下中井けやき様のブログⅡより引用)
十文字信介(1852~1908)


政治家、実業家。先祖は奥州亘理郡(宮城県)十文字館の城主、のち仙台藩支封伊達安芸の居住地陸奥国涌谷(宮城県)に移住。五代目が南蛮流の砲術家として知られ、その子秀雄は砲術で伊達家の師範役になった。秀雄は信介の父であり、弟に実業家の大元(1868~1924)がいる。信介は1852年(嘉永11月、陸奥国涌谷に生まれる。7歳で涌谷月将館に入り漢学を学ぶ。8歳で藩主の小姓となったが、口が達者で目上をはばからず銭庫に閉じ込められたこともある。

家業の砲術を学び10歳にして和銃の不利を悟り、父と鈴木大亮に西洋砲術を学び銃を毎日発射した。そのため鼓膜が破れ、4年間の療養の間に嫌いだった読書に励み多くを得た。中でもアメリカ独立の租ワシントンの伝記に感動、激しすぎる己の品行を顧みて反省したという。1868年(慶応4年16歳のとき戊辰戦争起こり佐幕、勤王がぶつかり物情騒然となった。

信介は大義が勤皇にあるとして「勤皇」を腰刀に刻み奔走、佐幕派に挑み挫こうとしたが父に止められ思いとどまった。明治初年、叔父の十文字栗軒が開拓使大主典として北海道に赴くのに随行、当地を見聞した。のち上京、箕作秋坪に入門して英学を学んだ後、海軍兵学校に入学。その後病にかかり1年で退校欧米の政治経済を独学で学なぶ。その後東京駿河台で農業を始める。1890年(明治23年)には第一回総選挙で宮城三区から当選し政治家(大成会所属)になる。1893年には実業界入りをする。

十文字大元(1868~1924)
涌谷藩(仙台藩の支藩)師範・十文字秀雄を父に陸奥国涌谷(宮城県)に生まれる。東京に出て、明治37年金門商会(のちの金門製作所)を創立し、日本で初めてガス・水道メーターを製造・販売を行う。一方で自彊術の開始者・中井房五郎により脊髄病を治療して以来、大正5年から自彊術の宣伝・普及に努め、多数の共鳴者を得た。また明治30年東京神田の錦輝館で、初めて活動写真が公開された際に、この説明を試み、映画の活弁の始まりと言われる。


横町挨拶
今回のようにマイナーなものをぐっと掘り下げるのも歴史の醍醐味と捉えています。私は昔から凝り性で何事も徹底的に調べないと気が済まない性分ゆえ、このようなことに向いているのかも知れません。今回心残りだったのは、六代目の十文字秀雄のことがほとんどわからなかった(伊達家砲術師範役以外)ことです。これも今後の課題と捉えています。

先日亘理町の名家・武者家のことを書きましたが、自分が亘理に住んだという既成事実を通して、こうした二つの家系と縁が出来たのは不思議な因果です。伊達家に尽力し、元和年間に亘理に居ついた武者家と、伊達家領地奪還の為、涌谷に逃げ延びた十文字家は対照的ですが、両家のことは更に新しい情報が入り次第、執筆しブログで発表したいと思っています。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

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