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マゼランの大いなる野望

 今日は人類初の世界一周を成し遂げたポルトガル人、フェルディナンド・マゼランについてのノンフィクションをお伝えする。歴史を変えた大航海の世界地図他から引用して、私のアドリブと比喩を加えた。


 ヴァスコダガマが1499年に苦心の末、アフリカ南端東回りによるインドへの新航路を開拓した後、ポルトガルの目は宝石に匹敵する高価な香辛料獲得に向けられていた。そんな中、ポルトガルの下級貴族だったフェルディナンド・マゼランは冷遇された母国ポルトガルに見切りをつけて1517年、その野望をかなえるためにスペイン国王カルロス1世と面会していた。「国王陛下、香辛料の産地、香料諸島(下図がモルッカ諸島:現インドネシア)へ行くには東回りよりも西回りのほうが、ずっと近いのです。この計画をかなえるために私を信じて是非スポンサーになってください」…しかし下図の右上方の世界地図を見て一目でわかるように、ヨーロッパからインドネシアへ西回り(南米大陸南端を回って)で行くことは、けして近くなかった。彼は香料諸島(現インドネシア)の位置を間違って認識していたのである。


 マゼランの自信たっぷりの弁舌で心を動かされたカルロス国王は彼を船長とする総勢約280名からなる5隻の船を派遣することを決めた。これを聞いたポルトガルからマゼランは嫌がらせや暗殺工作を受けたが、それを持ち前の大胆不敵なキャラではねのけて、念願の出港にこぎつける。とは言え、5隻の船はすべて老朽船で乗組員の大半はスペイン人でマゼランのワンマン体制に反抗的な者が不満を持ちながら同船していた。
 1519年9月20日にスペインのサンルーカル港を出港した5隻の船団は、大西洋を渡って12月13日ブラジルのリオデジャネイロ港に無事到着、2週間の休息をとった後南米大陸東岸(現アルゼンチン)を南下した。ここで広大な入り江を発見したが後に南米第2の大河ラプラタ川河口と判明する。冬の気配が濃くなってきた1520年3月31日、南緯50度に近いサンフリアン湾で越冬することを決めた。南緯50度を超すと「荒れる海」という表現は生易しい。「吠える海」「狂う海」といった表現があてはまるほどホーン岬周辺は強風が一年中吹き荒れていて何人もの船乗りの命を奪った恐怖の地帯だった。

行くてをはばむ【吠える海】、【狂う海】そして寒波襲来、果たしてマゼランの運命は?

 「こんな荒涼とした過酷なところで冬が越せるのか?マゼランは何を考えているのか?」…かねてからマゼランに不満を持った乗組員がここでいっきに反乱を起こす。一時は5隻のうち、3隻が反乱者の手に落ちたがマゼランは砲撃して反撃、2人の船長を殺すなどして制圧した。しかしマゼランは他の乗組員には寛大な措置をとって罪を問わなかったため、これ以後反乱の気配はなくなった。
 8月24日に再び航海を開始した船団は複雑で険しい海峡の地形、強風に悩まされながら3カ月の苦闘の後ついに11月28日、広い海(太平洋)に出た。これが600キロにも及ぶ後の「マゼラン海峡」である。(航空写真の+のところがマゼラン海峡の形状アルファベットの「V」の字の谷の交点になる部分で、複雑な海岸線が想像できる)それは大航海時代の数多くの航海者が、阻まれ続けてきた細長い「南米大陸の壁」を打破した瞬間でもあった。マゼランは感激のあまり涙を流した。しかしこの快挙はその後の地獄のような苦しい航海の始まりでもあった。

南米大陸の壁をついにブレイク!


詳しい地図で見る

陸地が見つからない…乗組員は飢えと壊血病に苦しみ、バタバタと命を落としていった。

その後の航海はまれに見る悪夢と苦難に満ちた悲惨なものだった。99日間有人島を見つけることができずに太平洋のど真ん中で飢えに苦しめられて、食糧補給ができず虫のわいたビスケットやネズミを食べた乗組員はビタミンC不足から来る壊血病でバタバタと次々に死んでいった。(後編へ続く)



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