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1951年に米国の軍医が朝鮮戦争で松島に駐留した際、宮城県沿岸部を撮影したカラー写真がインターネットで公開され注目を集めているが、本日はそれと異なる写真帖を図書館から借りてきた。「石巻・東松島・女川今昔写真帖」郷土出版社発刊・邉見清二氏(石巻千石船の会会長)監修である。郷土史研究家である邉見氏とは千石船の会などで交流をさせて頂いている。本日はその一部を紹介したい。

昭和33年、日和山方面から撮影した中瀬(北上川の中州にできた島)、湊方面の街並み。遠洋漁業と造船で栄えた港町の栄華が偲ばれる写真である。この二年後にチリ地震津波に見舞われ、大きな被害を受けただけに大変貴重な写真である。中瀬の建物屋根には「太平洋造船」という造船会社の文字が読み取れる。

これは2016年の夏に撮影した中瀬である。先の大震災で中瀬のほとんどが更地となった。昔の栄華を知る者には見るに忍びないものがある。

自分は6年前の2012年に少年の日の長浜海岸での思い出と題した随筆(少年時代によく長浜海岸に海水浴に行った)を書いた。これは昭和十年代(1940年前後か?)の長浜海水浴場である。1902年、盛岡中学の修学旅行でこの地を訪れた石川啄木は、この海岸の印象を「砕けては またかえしくる 大波の ゆくらゆくらに胸おどる洋」という短歌に託している。啄木がこの海岸を訪ねた六十年数年後、自分が、海水浴に訪れた印象も正にこの短歌の句そのものであった。遠浅の海が広がりをとくとご覧頂きたい。往時の長浜海岸は海水浴には最高の場所であった。

これは昨年撮影した長浜である。今は岸壁となり大型船が入港できる海岸に生まれ変わった。広大な砂浜が数十年に渡る侵食によって無くなったと聞いているが、古き良き時代の長浜を知る者には寂しい限りである。

これは昭和39年に撮影した袋谷地(現石巻市水明)である。北上川に掛かった橋は石巻線の陸橋である。雪の日の撮影のようだが往時の袋谷地は一面に水田が広がっていた。この写真が撮影された頃、自分は住吉小学校の同級生が袋谷地から通学していたのをはっきりと記憶している。写真からは往時の袋谷地地区の住居域が全くわからないが、やや左のほうに同級生の居住する家屋があったと捉えている。残念ながらこの写真から、渡し船(かつては手前の藤巻と袋谷地を結ぶ渡し船が存在した)が往来していたかどうかはわからない。

これは今年の5月に私が撮影した袋谷地地区である。撮影した地点の標高が違うのが残念だが、現在の袋谷地地区は密集した住宅地となっている。

自分は小学校三年に或る事情で母親の実家の渡波に身を寄せたことがあった。その時この仙北バスの仲町営業所(様々な路線における起点、終点)でバスに乗り降りして通ったことがあった。ゆえに、この写真には大変懐かしいものを感じるのである。

今はなき石巻リバーサイドホテル、1974年~2008年の34年間に渡って湊地区に居座ったホテルだった。大変残念ながら、今はせめて写真で往時の風情を偲ぶのみである。

仲町は石巻の目抜き通りである。1941年(昭和16年)徳田秋声は「縮図」という作品の中で或る芸者の悲哀を描いているが、モデルとなった小林政子(作品中の名は銀子)が流れてきた場所が石巻だった。栄華を極めたころの仲町には芸者置き場が数箇所あったと受け止めている。
※2013年6月12日更新本ブログ記事↓↓↓

横町挨拶
この写真帖には、自分の知っている石巻もございましたが、知らない石巻もございました。知らない写真の中には祖父母や父、叔父、叔母が関係するものがあったとしても不思議でないと捉えています。写真帖を見て、自分は改めてこの土地に生を受けたことに誇りを抱きます。松尾芭蕉を初め、幕末の1852年には吉田松陰もこの地を訪れています。また戊辰戦争のときは新撰組の土方歳三や旧幕府海軍指揮官の榎本武揚も訪れました。お察しの通り、この地は歴史を語るに事欠かない地でございます。然らば私の使命は生ある限り郷里・石巻の歴史を語り継ぐ事と認識しております。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

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